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無題ドキュメント

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太平洋戦争の父

 小学生の頃、夜、食事のあとなど、父は子どもたちに「いくさ」の話をしました。酷寒の満州でしもやけに泣いたこと、フィリピンのジャングルで部隊を率いての行軍中、雷に撃たれ難儀だったことなど、ゆっくりと、でも同じ話を何度も語りました。全体の話から、父は「戦争はすべきでない」と語っていると感じていました。
数年前、神奈川新聞に父の1942年ごろの戦地での消息がわかる記事が掲載され、驚いたことがありました。

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母との冬の夜の話(1)

 父に似て、冬になると毎年しもやけがひどく、母が毎晩私の手をきれいに洗い軟膏を塗り包帯を巻いてくれたのですが、ダメでした。特に手の甲と手首の部分は広範囲にしもやけがひどかったので、その後遺症でしわだらけでちょっと黒っぽくなっています。ネイルをしてもらった時改めて自分の手の写真を見て、昔の冬の日のことを思い出しました。※ネイル・デビューのことはこちら(’13.1.26)

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母との冬の夜の話(2)

 冬になると思い出すのは、寒い冬の夜、母が私を家から10分ぐらいのところにあるお店までよく買い物に誘ってくれたこと。買い物の後、母は小さい袋に入るほどのピーナッツを買いました。そして、帰り道にいつも「少し食べなさい」と言ってその小さい袋から1/3か半分ぐらい私に食べさせてくれました。雪のこともあった寒い夜、小さかった私は母にぴったり寄り添って歩きました。その時食べたピーナッツの塩味、寒い夜。懐かしい冬の思い出です。(’13.1.26)

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大きな赤ネコ 『ペッコ』

 どこから来たのか、大きくて強い、赤毛(といっても金色に近い)のネコがいました。夜はいつも一緒に寝て、それはそれは身近なかけがえのない存在でした。でも、ペッコが12歳ぐらいのある日、忽然といなくなりました。死期を悟って家を出たのか、それとも何かあったのか、今となってはわかりません。大切な”友だち”の家出がショックで、長い間悲しかったことはよく覚えています。

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天真爛漫、2歳年上の姉

 戦時中、中国南東部で生まれた姉は小さい頃から体が小さくよく病気をしました。小学校の2年か3年の頃は肋膜炎に罹り、兄の戦死、戦後の混乱の中での二人の姉の病死を経験した母のショックは大きく「私が絶対に治してあげる・・」と、1年ぐらいは姉にかかりきりでした。姉は学校の成績も△で私たち家族の「ちょっと困った子」でしたが、母はそんな弱い姉をいちばん可愛がっていました。私は姉の存在にちょっと鬱屈した気持ちを持っていました。子どもの頃のことです。

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雪の日の思い出

母とは反対に謹厳実直なのに天然ボケのところがあったのが父。同じく天然ボケの姉とは良い勝負。冬晴れのある朝、父は家の玄関前に積もった雪にソッと深さ50cmぐらいの穴を掘り、藁か小枝を渡し、その上を雪で覆いました。そして「(姉を)呼んで来い!」とうれしそうに私に命じました。「な-に?」と言って玄関から出てきた姉が見事にひっかかり雪穴に落ちる!怒る姉、見ていた父と私と弟は大笑い。母には叱られましたが、フト天然ボケが出るおかしな父。幼い頃の冬の日の懐かしい情景をくっきりと思い出します。

山の芋煮会

ナナカマドの実を見ると、懐かしい山の芋煮会を思い出します。リヤカーに荷物を積んで釜渡戸まで1時間ほど歩いた気がします。里芋、ジャガイモ、ニンジン、牛肉、ネギ、山のキノコも投げ込んで!煮てました。秋の澄んだ空気、紅葉、おいしい匂い、みんなの笑い声・・・。ナナカマド、リンドウが咲き、山に来たのでトウヤクを探す人もいました。 【2022/9/27記】

   

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無題ドキュメント

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「東京」へ転校した友

あまり思い出も残せないまま、遠くへ転校していった私の最初の友人、あべ・きみえちゃん。その人は何となく他の人とちがってきれいで、お父さんがいない子だった。いつもいちばん仲良く遊んでいたのに、ある日お母さんと「宇都宮」へ引っ越していった。その頃は『東京』と言っていた”遠いとおい”ところへ。
私は生れて初めてさみしくて夜、枕を濡らして泣いた。その人は今も元気でいるのだろうか?(‘13.1.26)

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毎日一緒に中学へ通った友

小学校も一緒だが全く思い出がない。でも中学では、通学の友だった。私は成績優秀、そちらは勉強嫌い。なのに気があったのか、今では思い出せないのに、それに家もかなり離れているのに、皆勤賞だった私とホントに毎日毎日一緒に通学してくれた友、高橋とく子さん。中学を卒業して集団就職で東京へ行ったと記憶している。それっきりどうしてるか知らない。いろいろ話もしたけどだまーって歩いてたことも多かった。でも仲良しだった!!(‘13.1.26)

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大事な友だち(1)

会っても親友、会わないでいても親友。30年ぶりにあっても話が昨日からの続きのようにつながる。中学の時3年間最も信頼し大切に思い、学業ではライバルだった友人(成績はいつも彼女が上だった)。中学1年の夏、彼女の家に招かれ、造り酒屋の広大なお屋敷に1泊した。楽しかった!その後、彼女が入る女子高へ私も行きたかったが、私は両親が許容する範囲で高校を選ぶしかなかった。そして「男子ばっかり」のバンカラの高校に進んだ!(‘13.2)

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大事な友だち(2)

中学のとき3年間、少なくとも2,3年生の2年間は先生がそっと席を私の近くにセットしてくれた男の子がいた。有名な菓子店の子どもだったが、母親が後添え(古い表現!)だったのか婚外子だったのか、お坊ちゃんなのに屈折した人だった。彼はいつも子分の男の子を2,3人連れ歩いていた。これってどうなんだろう?でも私とは仲が良かった。ブスの私を”美少女”と言ってからかった。(‘13.3.1)

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いちばん長く一緒に過ごした友だち

同級生ではないのに小学校から帰ると、毎日ずっと一緒にまりつきやお手玉などをして過ごした友だち”かんちゃ(かずちゃん)”。何を話したのか全く記憶にないけど、年上の私にちょっと気を使ってるようにもみえた。10数年後、私が帰省している時、母が「和ちゃんが東京から整形した顔で帰ってきた」と知らせてくれた。私は和ちゃんのことを思って、会わなかった。(‘13.8.15)

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同級生の修ちゃん

美しい顔立ち、すらりとした豹のような身体、驚くべき運動能力、視力、体力。すぐ前の家に住む同級生の修ちゃんは、家が貧しく、家中で夜中まで働いていたので、のんびり遊んだ記憶がない。その代わり、修ちゃんが私との学校からの帰り道で語る本当のような「嘘」に何度も騙されたことをよく憶えている。今ならそれが彼女の精いっぱいの自己防衛だったのだとわかる。修ちゃんは中学を出て故郷を離れた。(‘13.8.15) 

 

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無題ドキュメント

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「アケビ」

ほとんど食べたことがありません。秋の野山に自生し可憐な花を咲かせ、秋の味覚をも楽しませてくれる里山の人達にとって大切な食べ物なのに、自分の名前に呼び方がそっくりで、あだ名にされるのを恐れて、子どもの頃はずっと避けていました。子どもの頃の微妙な「忌避」の感覚、今思うと何のことはないのに・・・。これからは機会があったら、じっくり味わってみたいです。

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「サクランボ」

サクランボは、小さい頃は母方の伯父さんが「毎年届けてくれるもの」でした。今のような”甘くて大粒”のものではありませんでしたが、自転車の荷台に大きな箱を括りつけ、「ホゥラ」といって大量に届けてくれました。全くもって無口なこのおじさんは、「フフフッ」と笑って私たちの喜ぶ顔を見て帰って行くのでした。伯父さんが「オートゥ(桜桃)」と言っていたサクランボの品種は「高砂」  だったようです。

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「ラ・フランス」

いまでこそ都会でも大人気のこのくだもの。私は今と同じ「ラ・フランス」という名前で半世紀以上前から食べていました。今よりは少し小さめでもっと固くて、手ごわい感じでした。でも食べた時の上品な香りと甘さは、子ども心に「おいしい!」と思ったものです。家にもたらしたのはもちろん、新し物好きの母でした!
山形でのラフランス栽培の歴史はlaFrance_image.pngこちら

何とピッタリのイメージ!
 「紅玉」

 りんごなら「紅玉」。小さくて真っ赤で酸っぱくて、がぶりとかじると白っぽく黄色いきれいな果肉が見える。秋の芋煮会の道すがら、よその果樹園の紅玉を食べたことがあるような気がする。子どもは、そんなことをしてもよかった。(2018.12.25)  

 庭の渋柿

 母屋の屋根をときどき脅威にさらす大きな柿の木があった。秋には落ち葉が山のように積る(ように思えた)。私が庭掃除の担当だったから。渋柿は焼酎をかけられてお風呂のお湯に入れられ、少しすると「あら不思議」おいしくなって毎年私たちを楽しませた。(2018.12.25) 

こんな風に実がつく

 「すもも」「赤ずもも」「ナツメ」「グミ」「スグリ」「桑の実」

 この7つの実は、実は近所の家に植えられてた木に生っていたもの。でも、少しの遠慮はあったけど毎年口にし楽しんでいた。今考えるといい時代の田舎の暮らしだ。中でも好きだったのは「赤ズモモ」。何とも言えないふっくらとした酸っぱさと甘さ。ただ懐かしい。あの木は今でもあの濃い赤い実をつけているのだろうか?(2018.12.25) 

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冬の花、ナンテン

2012年12月13日

冬の庭は雪に埋もれ、庭の木は「雪囲い」に巻かれて見えなくなっていました。

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でも、玄関脇の植え込みにあった丈の低いナンテンは、冬になってもそのままでした。ナンテンは、葉が小さく、雪を払うようにできていたのでしょうか?

だから、冬の思い出はナンテン。赤い実と赤い葉が、冬の白一色の風景を少しだけ和らげていました。冬は、ほかには葉ボタンぐらいしか鑑賞する花もなく、あとは、山から春風が吹き、フキノトウが雪の中から顔を出し、ユキヤナギが芽吹くのを待つのです。
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菊の里に生まれました

2012年9月27日

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大輪の菊(南陽市「菊祭り2012」)にて撮影

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秋に開かれる「菊まつり」。祭りのイベント「菊花展」と「菊人形展」は毎年の秋の楽しみでした。
「菊まつり」の日は親戚中が集まり、「菊見だんご」を食べながらのんびりと秋の一日を過ごしました。

菊は各家庭で育てられます。私が小さい頃、父も庭に大きな、3段か4段ぐらいの棚を作り、たくさんの懸崖種を育てていました。「菊花展」に出展する予定はなかったようですが、父は毎朝仕事に出かける前に大切そうに手入れをしていました。あまり趣味というようなものがなかった父の、唯一の趣味のようでした。

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(南陽市「菊祭り2012」)

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菊人形(南陽市「菊祭り2012」)

“菊人形研究家”川井ゆうさんの本の紹介記事はこちら

ひと組5本の菊花を、品評会の”その日”に合わせて一斉に咲きそろうよう、工夫に工夫を重ねるのだそうです。伝統の技術に、育てる人の愛情が感じられる菊花展です。何十年変わらず、人形の古典的なお顔もそのまま、「菊見だんご」も健在です。

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 父の好きなものは「山」でした。小さい頃から所有地の森の手入れが得意で好きだったとのこと。
後年「どこかいきたいところある?」と尋ねると「山(森)を見に行きたい」という人でした。
でも一度だけ、美しい萩の花が咲く「萩寺」(はぎ公園)へ行ったことがありました。ちょっと
意外で、今思うと花も好きだったのだなぁと、懐かしく思い出します。

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秋を感じる野の花、ノギク

2012年12月12日


秋には野原や道端に白や黄、うすい紫の菊がたくさん咲いていました。でも花そのものへの印象はあまり強くありませんでした。

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それでもノギクが好きなのは、私が子どもの頃大好きだった歌が「野菊」(歌詞pdf)だったから。ふるさとを離れても折に触れて思い出す歌です。
それから、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』も大好きな小説でした。

今では大好きなはな、野菊。あまり訪れる人のいない西鎌倉の青蓮寺には、うすむらさきの野菊が美しく咲きます。私のホームページを飾る写真が、2010年秋、青蓮寺で撮った「ノギク」(上)です。

「野菊」という花の名前はなくて、」ノコンギク、カントウヨメナとかの総称と聞きましたが、野に咲く花だから「野菊」。踏まれても、そっと背を伸ばすような強さと、秋の空の寂しさと。。。
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