「阿王ケ台」考

「かねさわ地名抄」より 第26回「阿王ケ台」 文・NPO法人 横濱金澤シティガイド協会

釜利谷東4丁目の丘陵部に広がる阿王台団地と、同3丁目金沢文庫コーポランドの地は、それぞれ西青ヶ台、東青ヶ台と呼ばれていました。 西青ヶ台の地では、1941(昭和16)年に遺跡の発掘調査を、1967(昭和42)年には団地造成の事前調査が行われました。二度の調査で発掘された住居跡の堆積土中に、多量の貝が確認されました。その様子から、廃絶した住居の跡地に貝を廃棄したため貝塚が形成されたことかわかり、青ヶ台貝塚と称されるようになりました。

 また、縄文時代中期の加曽利式土器や釣り針などの骨角器も多数見つかっています(横浜市金沢区青ヶ台貝塚発掘調査概報)。竪穴住居跡や敷石住居跡なども発見されたことで、縄文時代の住民にとって海山の幸に恵まれた居住適地だったことがわかりました。鎌倉時代末期には鎌倉幕府第15代執権金沢貞顕の子で幕府引付衆や評定衆兼官途奉行等を歴任した金沢冬貞(右馬助)の居館「青ヶ台城」があったとされています。

金沢冬貞は、元弘の乱で大活躍した幕府の名将です。『新編武蔵国風土記稿』によると、この居館跡は金沢城とも呼ばれ、深い谷を挟んで東と西の二箇所あり山頂は平坦地で、いかにも城塁を構えた地形であったと記述されています。

資料:横浜市金沢区青ケ台貝塚発掘調査概報 佐野大和, 西田泰民編 [横浜市教育委員会], 1994.5

田んぼはどこだったのだろう?

「広報よこはま」2019/7 かなざわ区版より PDF

海に面した金沢区には約8,000年前から人々が住んでいた跡が残っています。60か所以上の遺跡が知られており、台地の上や海辺につくられた遺跡から崖面に掘りこまれたものまで、地形に応じて、特徴あるさまざまな遺跡がみつかっています。

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