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オールコット作「若草物語」

たぶん小学校の低学年の春の頃、父の友人が”めずらしい素晴らしい”お土産を持って我が家を訪れました。母が大変興奮して「この本は外国の本で高価で貴重なのだ」といい、座敷の奥にあったガラスケースが付いている書架に大切に納め、なかなか読ませてもらえなかったのを覚えています。「外国の本」と聞いたのに見てみると日本語なので「ヘンだな」と感じた記憶があります。「洋書」と言ったのかもしれません。でも、この時のうれしさと本への憧れが後の読書好きの私を作ったのです。
「若草物語」

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原田 康子作「挽歌」

本で読んだのは小学校6年生ぐらいだったかもしれません。
でも私が挽歌を知ったのは久我美子が主演した映画です。学校の行事で見たのでしょう、授業で感想文を書きましたから。私は内容を良く理解し感動し、そのまま書きたいこと思ったのですが、自分の年齢を考えて控えめに理解したような感想文を書きました。それでも先生は私の母に「16歳ぐらいの精神年齢だ」と言ったそうです。私にとってはその評価の方が驚きでした。その意味で強く印象に残る作品です。
「挽 歌」 ★母が残してくれたboxに2015年その作文が見つかりました。AkemiMoviwRev1.JPG

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 怪獣映画「ラドン」

小学校の中学年ごろ親に連れられて観た映画です。筑豊の炭鉱の地中深く、暗い坑内でひっそりと生れた世にも恐ろしい姿の怪獣の幼虫は、屈強な炭鉱の男たちをも恐怖に陥れました。その巨大な幼虫が、暗い坑内をうごめくさまは、私の幼い恐怖心を心底ゆすぶり、長い間トラウマとなりました。一緒に観に行った父と弟は何故か平気な顔で見ていました。映画「ラドン」は、日本が受けた原水爆をモチーフにした社会性のある映画だったことをあとで知りました。幼い私にとってはとてもとても、恐ろしい出来事でした。
映画の紹介はこちら、こわい幼虫の顔は「ラドン 炭鉱 幼虫」の画像検索結果

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 若の花物語「土俵の鬼」

 「初代若ノ花が自ら主演した伝記映画で、1956年12月劇場公開」とあります。私が観たのは小学校4年生ぐらいの時。当時好きだった大関若の花が、まだ若い時から沖中士として働き、鍛えた肉体とハングリー精神で小さい体で相撲に立ち向かう映画でした。この映画が忘れられないのは、見終わって映画館から出てからも「もう一度映画館へ戻りたい!」と強烈に思った、その時の私の胸の中の悲しみの気持ち。映画の中で、長男をやけどで死なせてしまって泣くシーンに心を揺さぶられたから。あの時の私の悲しかった気持が今も鮮やかに思い出されます。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は The-Long-Winter-Cover-700x692.jpg です
 ワイルダー「長い冬」

 小さい個室で月間の女性誌を読んだいたら、小学生のころ母が私にとても感動した本として、こころを込めて話をしてくれた。私がその後読んだかどうかはっきりした記憶はない。今度は英語版で読んでみたいと思う。2020.3.21記 <つづく

 

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 タイトル6

 本文6  続きはこちらから・・・

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「虫の声」

“あれマツ虫が鳴いている チンチロチンチロ チンチロリン”
私が小学生のときよく歌っていた曲です。私がいちばん好きというわけではありませんでしたが、母が「私の声に良く合っていて上手」といつもほめて、リクエストしてくれました。「特に虫の声のところが上手」とよく言いました。歌っていたその時の家の中の様子もよく覚えていて、懐かしい曲です。

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「どこかで春が」

春の気配が山の方から近づくと、一面の雪だった家の周りの道路にすこしずつ乾いたまるい土が見え、里には一斉にネコヤナギ、フキノトウ、辛夷などが咲きはじめるのです。私はいつもこの歌で、そのころの冷たいけれど晴れやかな風と空気を思い出すのです。この頃のことは「花に寄せて」にたくさん書きました。(写真は葉山町下山口でみた辛夷の花, 2010年3月)

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「花かげ」

小学校3,4年生のころ、我が家に蓄音器がきました。父がある日重い器械を背負って仕事から帰ってきたのです。父は音楽には疎い人だったので、音楽好き・新しい物好きの母にせがまれたのでしょう。私たち子どもも大喜びでした。最初に買ってもらったレコードが、この「花かげ」「絵日傘」の1枚でした。 

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「サンタ・ルチア」

私が子どもの頃、母がイタリア語で(!)歌っていた懐かしい曲。2004年初めてベネチアへ旅行した時、ゴンドラで運河を渡りました。たまたま乗り合わせた舟でゴンドリエが朗々とサンタ・ルチアを歌いだしたとき、涙が出そうになりました。懐かしくて、そしてその歌声が素晴らしくて!
その時の映像と歌声はこちら  歌詞はこちら

  ♪Santa Lucia_2♪ 2024/2/21

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「からたちの花」 (北原白秋)

小学校5年生の夏休み、ピアノの先生が「音楽会」へ連れて行ってくれました。遠いところまで汽車で初めて出かけたそのコンサートでは、素敵なプリント柄のワンピースを着たきれいな女性がこの「からたちの花」を歌いました。高音のすばらしい歌声は小さい私の心に強い印象を残しました。私はその時、母が作ってくれたピンクの、裾に紺色のチューリップのアップリケがたくさんついているワンピースを着ていました。「からたちの花」

Barcarolle」 (Chopin)

それから75年が過ぎ、ピアノの先生の「音楽会」から、大学での混声合唱、60歳を過ぎてからのドイツ歌曲の勉強からの音楽散歩。友人のあとをついていっての声楽の勉強、本格的Voice Training、舞台での演奏活動と長く続くこととなり、私の人生を大きく彩ることとなった。


最後の演奏曲は「Ev’ry valley shall be exalted
Stage Song List 

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「東京」へ転校した友

あまり思い出も残せないまま、遠くへ転校していった私の最初の友人、あべ・きみえちゃん。その人は何となく他の人とちがってきれいで、お父さんがいない子だった。いつもいちばん仲良く遊んでいたのに、ある日お母さんと「宇都宮」へ引っ越していった。その頃は『東京』と言っていた”遠いとおい”ところへ。
私は生れて初めてさみしくて夜、枕を濡らして泣いた。その人は今も元気でいるのだろうか?(‘13.1.26)

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毎日一緒に中学へ通った友

小学校も一緒だが全く思い出がない。でも中学では、通学の友だった。私は成績優秀、そちらは勉強嫌い。なのに気があったのか、今では思い出せないのに、それに家もかなり離れているのに、皆勤賞だった私とホントに毎日毎日一緒に通学してくれた友、高橋とく子さん。中学を卒業して集団就職で東京へ行ったと記憶している。それっきりどうしてるか知らない。いろいろ話もしたけどだまーって歩いてたことも多かった。でも仲良しだった!!(‘13.1.26)

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大事な友だち(1)

会っても親友、会わないでいても親友。30年ぶりにあっても話が昨日からの続きのようにつながる。中学の時3年間最も信頼し大切に思い、学業ではライバルだった友人(成績はいつも彼女が上だった)。中学1年の夏、彼女の家に招かれ、造り酒屋の広大なお屋敷に1泊した。楽しかった!その後、彼女が入る女子高へ私も行きたかったが、私は両親が許容する範囲で高校を選ぶしかなかった。そして「男子ばっかり」のバンカラの高校に進んだ!(‘13.2)

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大事な友だち(2)

中学のとき3年間、少なくとも2,3年生の2年間は先生がそっと席を私の近くにセットしてくれた男の子がいた。有名な菓子店の子どもだったが、母親が後添え(古い表現!)だったのか婚外子だったのか、お坊ちゃんなのに屈折した人だった。彼はいつも子分の男の子を2,3人連れ歩いていた。これってどうなんだろう?でも私とは仲が良かった。ブスの私を”美少女”と言ってからかった。(‘13.3.1)

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いちばん長く一緒に過ごした友だち

同級生ではないのに小学校から帰ると、毎日ずっと一緒にまりつきやお手玉などをして過ごした友だち”かんちゃ(かずちゃん)”。何を話したのか全く記憶にないけど、年上の私にちょっと気を使ってるようにもみえた。10数年後、私が帰省している時、母が「和ちゃんが東京から整形した顔で帰ってきた」と知らせてくれた。私は和ちゃんのことを思って、会わなかった。(‘13.8.15)

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同級生の修ちゃん

美しい顔立ち、すらりとした豹のような身体、驚くべき運動能力、視力、体力。すぐ前の家に住む同級生の修ちゃんは、家が貧しく、家中で夜中まで働いていたので、のんびり遊んだ記憶がない。その代わり、修ちゃんが私との学校からの帰り道で語る本当のような「嘘」に何度も騙されたことをよく憶えている。今ならそれが彼女の精いっぱいの自己防衛だったのだとわかる。修ちゃんは中学を出て故郷を離れた。(‘13.8.15) 

 

2024/11/14 中学の時のペンパル Jan Scaceの家

詳細:Old penpal Janの家 in L.A.

記事

 

 

 

 

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「アケビ」

ほとんど食べたことがありません。秋の野山に自生し可憐な花を咲かせ、秋の味覚をも楽しませてくれる里山の人達にとって大切な食べ物なのに、自分の名前に呼び方がそっくりで、あだ名にされるのを恐れて、子どもの頃はずっと避けていました。子どもの頃の微妙な「忌避」の感覚、今思うと何のことはないのに・・・。これからは機会があったら、じっくり味わってみたいです。

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「サクランボ」

サクランボは、小さい頃は母方の伯父さんが「毎年届けてくれるもの」でした。今のような”甘くて大粒”のものではありませんでしたが、自転車の荷台に大きな箱を括りつけ、「ホゥラ」といって大量に届けてくれました。全くもって無口なこのおじさんは、「フフフッ」と笑って私たちの喜ぶ顔を見て帰って行くのでした。伯父さんが「オートゥ(桜桃)」と言っていたサクランボの品種は「高砂」  だったようです。

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「ラ・フランス」

いまでこそ都会でも大人気のこのくだもの。私は今と同じ「ラ・フランス」という名前で半世紀以上前から食べていました。今よりは少し小さめでもっと固くて、手ごわい感じでした。でも食べた時の上品な香りと甘さは、子ども心に「おいしい!」と思ったものです。家にもたらしたのはもちろん、新し物好きの母でした!
山形でのラフランス栽培の歴史はlaFrance_image.pngこちら

何とピッタリのイメージ!
 「紅玉」

 りんごなら「紅玉」。小さくて真っ赤で酸っぱくて、がぶりとかじると白っぽく黄色いきれいな果肉が見える。秋の芋煮会の道すがら、よその果樹園の紅玉を食べたことがあるような気がする。子どもは、そんなことをしてもよかった。(2018.12.25)  

 庭の渋柿

 母屋の屋根をときどき脅威にさらす大きな柿の木があった。秋には落ち葉が山のように積る(ように思えた)。私が庭掃除の担当だったから。渋柿は焼酎をかけられてお風呂のお湯に入れられ、少しすると「あら不思議」おいしくなって毎年私たちを楽しませた。(2018.12.25) 

こんな風に実がつく

 「すもも」「赤ずもも」「ナツメ」「グミ」「スグリ」「桑の実」

 この7つの実は、実は近所の家に植えられてた木に生っていたもの。でも、少しの遠慮はあったけど毎年口にし楽しんでいた。今考えるといい時代の田舎の暮らしだ。中でも好きだったのは「赤ズモモ」。何とも言えないふっくらとした酸っぱさと甘さ。ただ懐かしい。あの木は今でもあの濃い赤い実をつけているのだろうか?(2018.12.25) 

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冬の花、ナンテン

2012年12月13日

冬の庭は雪に埋もれ、庭の木は「雪囲い」に巻かれて見えなくなっていました。

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でも、玄関脇の植え込みにあった丈の低いナンテンは、冬になってもそのままでした。ナンテンは、葉が小さく、雪を払うようにできていたのでしょうか?

だから、冬の思い出はナンテン。赤い実と赤い葉が、冬の白一色の風景を少しだけ和らげていました。冬は、ほかには葉ボタンぐらいしか鑑賞する花もなく、あとは、山から春風が吹き、フキノトウが雪の中から顔を出し、ユキヤナギが芽吹くのを待つのです。
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菊の里に生まれました

2012年9月27日

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大輪の菊(南陽市「菊祭り2012」)にて撮影

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秋に開かれる「菊まつり」。祭りのイベント「菊花展」と「菊人形展」は毎年の秋の楽しみでした。
「菊まつり」の日は親戚中が集まり、「菊見だんご」を食べながらのんびりと秋の一日を過ごしました。

菊は各家庭で育てられます。私が小さい頃、父も庭に大きな、3段か4段ぐらいの棚を作り、たくさんの懸崖種を育てていました。「菊花展」に出展する予定はなかったようですが、父は毎朝仕事に出かける前に大切そうに手入れをしていました。あまり趣味というようなものがなかった父の、唯一の趣味のようでした。

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(南陽市「菊祭り2012」)

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菊人形(南陽市「菊祭り2012」)

“菊人形研究家”川井ゆうさんの本の紹介記事はこちら

ひと組5本の菊花を、品評会の”その日”に合わせて一斉に咲きそろうよう、工夫に工夫を重ねるのだそうです。伝統の技術に、育てる人の愛情が感じられる菊花展です。何十年変わらず、人形の古典的なお顔もそのまま、「菊見だんご」も健在です。

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 父の好きなものは「山」でした。小さい頃から所有地の森の手入れが得意で好きだったとのこと。
後年「どこかいきたいところある?」と尋ねると「山(森)を見に行きたい」という人でした。
でも一度だけ、美しい萩の花が咲く「萩寺」(はぎ公園)へ行ったことがありました。ちょっと
意外で、今思うと花も好きだったのだなぁと、懐かしく思い出します。

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秋を感じる野の花、ノギク

2012年12月12日

 


秋には野原や道端に白や黄、うすい紫の菊がたくさん咲いていました。でも花そのものへの印象はあまり強くありませんでした。

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それでもノギクが好きなのは、私が子どもの頃大好きだった歌が「野菊」(歌詞pdf)だったから。ふるさとを離れても折に触れて思い出す歌です。それから、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』も大好きな小説でした。
今では大好きなはな、野菊。あまり訪れる人のいない西鎌倉の青蓮寺には、うすむらさきの野菊が美しく咲きます。
私のホームページを飾る写真が、2010年秋、青蓮寺で撮った「ノギク」(上)です。「野菊」という花の名前はなくて、」ノコンギク、カントウヨメナとかの総称と聞きましたが、野に咲く花だから「野菊」。踏まれても、そっと背を伸ばすような強さと、秋の空の寂しさと。。。
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