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無題ドキュメント

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就学前のある日

満3歳の時の弟誕生の日の記憶を除き、私が最も古い記憶としてはっきり憶えている風景は、小学校へ入学する前、学校の教室なのか廊下なのか、明るい陽ざしが輝く板敷きの室内で、うれしいようなコワいような緊張の中で、何かを待って友だちと並んで座っていた時間。きっと先生のお話しを待っていたのだろう、もう思い出せない。でも、晴れやかな楽しいことが始まるのを感じていた。

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習字コンクールで「特選」となる

小学校は(たぶん,きっと,かなり)のんびりしていた。小学校2年生の姉がやっている二桁の算数の問題は解いてたけど、のんびりした字を書いていた。母は私のひらがながおお~きくて、名前の最初の字”ひ”が「下へどんどん延びて上へ戻ってこない」と言って心配して、でも笑った。
それでも先生の助けで大きな習字コンクールで特選を取った。小学校1年の時のことだ。 関連記事はこちら・・・  2015年、賞状が見つかりました。copyAkemiAwards11.JPG

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鉛筆の思い出

毎日学校へ持っていく鉛筆は、いつもきれいに削ってありました。母が、子どもたちが寝静まってからきれいに削ってくれたのです。子どもころは当たり前のように思っていましたが、母の勤勉さと愛情を感じました。
学校のことと言えば、先生の家庭訪問の日は家の中が完璧にきれいになっていて、自分の先生の訪問の日でなくてもすぐ「あ、今日は家庭訪問の日だ」とわかったものです。 

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定期購読は「少女ブック」

小学生の時、父が毎月買ってくれた懐かしい少女雑誌です。内容は歌手などアイドルの写真やマンガ、読み物。テーマは、バレエ、家族のものがたり、古典など。定期購読の届け先は自宅ではなく父の職場でした。3日ぐらい前から楽しみに待ち、発売日当日は父の帰宅を首を長くして待ちました。その父は、「あ!(届いたのに)持ってくるのを忘れた!」とよく言いました。私がどんなに落胆したことか!!なのに父は何だか嬉しそうだった気がします。きっとあまり多くない”楽しみ”を大きくしてくれたのかもしれません。

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小学校高学年の時の先生

私が出あった先生の中で最も尊敬し好きだった村越栄子先生。聡明で字が素晴らしく上手で、ふっくらした体格でした。明るい学校の裏山での野外観察(&ちょっと勉強)がユニークで好きでした。5年生のころ、先生の長男が脳炎に罹り、数カ月後教室に戻ってきたとき、黙って黒板に「ウィルス性脳炎・・」と書いて悲しみをこらえて私たちに説明しました。悲しさが胸に響きました。後年、母の無二の親友となりました。

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集団就職で旅立った友

中学を卒業すると集団就職のために上京する友人が多くいました。その友人たちが宮内駅からみんな同じような白っぽいスプリングコートを着てその中はまだ学生服のまま、応援団の応援歌と家族・先生・たくさんの友人に見送られて旅立ちました。それぞれの歴史があったことでしょう。私は知らない・・。でも、あの見送りの時の別れの悲しみと何とも言えない奮い立つような思いの春は忘れられません。  

 

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無題ドキュメント

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「東京」へ転校した友

あまり思い出も残せないまま、遠くへ転校していった私の最初の友人、あべ・きみえちゃん。その人は何となく他の人とちがってきれいで、お父さんがいない子だった。いつもいちばん仲良く遊んでいたのに、ある日お母さんと「宇都宮」へ引っ越していった。その頃は『東京』と言っていた”遠いとおい”ところへ。
私は生れて初めてさみしくて夜、枕を濡らして泣いた。その人は今も元気でいるのだろうか?(‘13.1.26)

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毎日一緒に中学へ通った友

小学校も一緒だが全く思い出がない。でも中学では、通学の友だった。私は成績優秀、そちらは勉強嫌い。なのに気があったのか、今では思い出せないのに、それに家もかなり離れているのに、皆勤賞だった私とホントに毎日毎日一緒に通学してくれた友、高橋とく子さん。中学を卒業して集団就職で東京へ行ったと記憶している。それっきりどうしてるか知らない。いろいろ話もしたけどだまーって歩いてたことも多かった。でも仲良しだった!!(‘13.1.26)

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大事な友だち(1)

会っても親友、会わないでいても親友。30年ぶりにあっても話が昨日からの続きのようにつながる。中学の時3年間最も信頼し大切に思い、学業ではライバルだった友人(成績はいつも彼女が上だった)。中学1年の夏、彼女の家に招かれ、造り酒屋の広大なお屋敷に1泊した。楽しかった!その後、彼女が入る女子高へ私も行きたかったが、私は両親が許容する範囲で高校を選ぶしかなかった。そして「男子ばっかり」のバンカラの高校に進んだ!(‘13.2)

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大事な友だち(2)

中学のとき3年間、少なくとも2,3年生の2年間は先生がそっと席を私の近くにセットしてくれた男の子がいた。有名な菓子店の子どもだったが、母親が後添え(古い表現!)だったのか婚外子だったのか、お坊ちゃんなのに屈折した人だった。彼はいつも子分の男の子を2,3人連れ歩いていた。これってどうなんだろう?でも私とは仲が良かった。ブスの私を”美少女”と言ってからかった。(‘13.3.1)

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いちばん長く一緒に過ごした友だち

同級生ではないのに小学校から帰ると、毎日ずっと一緒にまりつきやお手玉などをして過ごした友だち”かんちゃ(かずちゃん)”。何を話したのか全く記憶にないけど、年上の私にちょっと気を使ってるようにもみえた。10数年後、私が帰省している時、母が「和ちゃんが東京から整形した顔で帰ってきた」と知らせてくれた。私は和ちゃんのことを思って、会わなかった。(‘13.8.15)

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同級生の修ちゃん

美しい顔立ち、すらりとした豹のような身体、驚くべき運動能力、視力、体力。すぐ前の家に住む同級生の修ちゃんは、家が貧しく、家中で夜中まで働いていたので、のんびり遊んだ記憶がない。その代わり、修ちゃんが私との学校からの帰り道で語る本当のような「嘘」に何度も騙されたことをよく憶えている。今ならそれが彼女の精いっぱいの自己防衛だったのだとわかる。修ちゃんは中学を出て故郷を離れた。(‘13.8.15) 

 

2024/11/14 中学の時のペンパル Jan Scaceの家

詳細:Old penpal Janの家 in L.A.

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