Wagnerとドイツの歴史

先日、YCUの先生に指摘を受けた「アーリア民族」に関する私の知識不足を埋めるべく少しずつ勉強中。 『ナチスは、「適者生存」に関するダーウィン進化論に基づいた社会ダーウィン主義の見解』( Holocaust Encyclopediaより)によりドイツ「アーリア」人種 なる概念を考案し、 『ユダヤ民族はドイツの内外両方における最大の敵』とした。( 同 )それでは、そもそもドイツ人(なるもの)とは何なのか?研究することにした。

「アーリア民族」とは何か、どこで生まれ、どこへ移ったのか?


ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ」を読んで調べたこと

音楽によって「真のドイツ」を打ち立てようとした作曲家リヒャルト・ヴァーグナー。三月革命や統一戦争で国家の輪郭が激しく揺れ動いた時代、複数の「ドイツ」がせめぎあうなか、超政治としての芸術を実践した彼の「ドイツ」はいったいどこに向かったのか。19世紀ドイツのナショナリズムを新たに問い直す音楽史。


2年前バルト3国へ旅行した時にワグナーが住んでいた(1837-39)住居の中を見学した! ワグナー通り(の奇跡) Riga ✈ Trip to the Baltics (Riga) 9/11

2017年9月撮影

ワーグナーの歌劇な部屋」より。1836 :歌劇「恋愛禁制」をマグデブルクで初演するが失敗。ケーニヒスベルク劇場と契約。ミンナ・プラーナーと結婚。1837:ケーニヒスベルク劇場の指揮者に任命される。リガ(ロシア領)の町劇場と契約。1839 :リガ劇場解職。パリに移住。1841 :歌劇「オランダ人」完成。1843 :歌劇「オランダ人」ドレスデンで初演。王室ザクセン宮廷指揮者に就任。とあった。マグデブルクはベルリンの西南 旧東ドイツ地域、エルベ河畔にある都市。ケーニヒスベルクはバルト海に近いリトアニア,ラトヴィアでさえぎられているロシア領の飛び地の都市(ソ連時代はカリーニングラード)そしてリガである。

Wikiより; 1837年にはドレスデン、さらに帝政ロシアリガ(現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。ドレスデンでエドワード・ブルワー=リットンの小説『ローマ最後の護民官リエンツィ』を翻訳で読み、台本スケッチにした。1839年3月、リガの劇場を解雇された。7月、債権者から逃れたワーグナー夫妻はロンドンへ密航した。この時に暴風に襲われ、『さまよえるオランダ人』の原型となった。


17世紀半ばのヨーロッパ
18世紀半ばのプロイセン・オーストリア
イタリアとドイツの統一(19C)


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