16年ぶりの再会, Dushさん from S.L.

(検索されないようにフルネームは書かない)16年も前の、それも大学院の友人宅で、その奥様として物静かに家にいらしたその人と、スリランカ・コロンボのご自宅で会った。それ以来、一度も連絡もしたことがなかったけどIndikaを通して消息は知っていた。その人とこの秋に東京で2回目の出会い。16年前、彼女の家では、彼女と家のお手伝いの人が作った大ごちそうをいただきながら、当時生まれたばかりの赤ちゃん(女の子だった!)をずっと抱っこしていた。かわいかったから。その人はもう16歳になったと。


    東京の西、ここから2時間かかる昭和記念公園の近くの駅で、感動の再会。


一番驚いたことは、彼女が普通の housewife として生きてきたのではなく、 (そして 素敵なSri Lankan dancer であるだけでなく)立派な学歴、キャリアを持つ検察官だったこと。Anti Corruption measures が彼女のテーマ。今後はその分野からの教育問題にもエリアを広げ、更にコミュニケーション理論も取り入れた勉強をするために日本への派遣研修に臨んだ。約40日の研究・研修は大変ハードだったらしい。

Minimal Office にて

日本について学ぶための機会を作ってほしい、でも「ストレスがかかりすぎるのでAkemiの家族の範囲で」との希望に応えて、新宿のKenのOfficeでミーティングを開いた。彼女は大変喜んでくれたと思う。楽しい再会だった。もちろんこちらもストレスはあったけど、役に立てて嬉しかった。

Hello, how are you? I noticed you visited western Japan. The plan for nov 10 is; I pick you up at the place we met at H.N. Sta at 14:00 pm, then take you to the place you meet my son Ken and my daughter K at Ken’s office in Shinjuku ward, Tokyo by train. Maybe Ak, my daughter’s husband, and little Shimon, 7 yo my grandson, will join us. It would be a casual relaxed gathering, just talk about real lives in Tokyo. And we would very much like to know about your study in Tokyo, and of course your life in Sri Lanka! It takes about 40 minutes from the sta to the office in Shinjuku. I’ll send you back to H. N., don’t worry! You could come back to your dorm at around 19:00. If it is OK for you, I’m very happy to organize the meeting. Akemi

彼女からの温かいメッセージがすべてを物語る良い出会いだった。
Thanks a lot akemi San… Time flies…. We grow old…. Friendship remains…
May you and your loving family blessed with good health…

11/13 Lunch


スリランカ(1)/セイロン島

インド亜大陸の南の島。かつてはセイロン島とも言われた。🌷アーリヤ系シンハラ人が上座部仏教を受容、インド洋交易圏の中心地として栄えた。そこに南インドからヒンドゥー教との💐ドラヴィダ系タミル人が移住し、多数派シンハラ人による少数派タミル人との民族対立が起きている。・ページ内の見だしリスト

スリランカ史の要点

スリランカ地図

スリランカ Yahoo Mapシンハラ王国と上座部仏教 アーリア系のシンハラ人がシンハラ王国を築いた。すでに前4世紀に北インドを統一していたマウリヤ朝では仏教が盛んになり、前240年ごろ、アショーカ王が王子マヒンダをスリランカに派遣して仏教を伝え、スリランカの王も仏教に帰依し、以後この地は上座部仏教の中心地として栄えた。
インド洋交易圏 南インドの島嶼であるこの島はインド洋の海上交易に重要な役割を果たし、また肉桂(シナモン)などの香辛料の産地であった。前2世紀には南インドのタミル人勢力であるチョーラ朝とパーンディヤ朝の侵入を受ける。紀元後1世紀以降には、ローマ帝国と中国を結ぶインド洋交易圏での季節風貿易が活発になり、中継貿易を行う港市国家として栄えた。

植民地支配 🌷16世紀には❗️ポルトガル人が進出し、さらに1657年には❗️オランダが植民地支配を開始した。ナポレオン戦争中に❗️イギリスが占領し、その後の1815年以来、イギリスの植民地としてセイロンと言われていた。1946年にイギリス連邦内の共和国として独立したが、その後もしばらくセイロンと称していたが、1972年に国号をスリランカに改称した。
セイロンとスリランカ セイロンというのは、獅子の子孫という伝説のあるヴィジャヤ王(前5世紀)を最初の統治者とするので📝シンハラドヴィーバ(獅子の国)とわれたのが📝アラビア人がセランディーブと訛り、ポルトガル人によってセイラーン、📝イギリス人がセイロンと言うようになったもの。従って、セイロン Ceylon と言うのは正しくなく、現在では歴史的にも現地の人の使うスリランカに言いかえている。ただし、植民地としてはセイロン、またはセイロン島ということもあるので注意すること。
民族紛争  商業活動が活発になるに従って、次第にヒンドゥー教を信仰するドラヴィダ系のタミル人が移住するようになり、先住民で多数派である仏教徒シンハラ人(インドヨーロッパ語族のアーリア系)との対立が始まった。1970年代からシンハラ人とタミル人の民族対立が深刻となり、1983年から内戦状態となった。2002年にようやく停戦に漕ぎ着けたが、翌年戦闘が再開され、さらに長期化した。政府軍が武力制圧を強め、2009年にタミル人側が敗北宣言を出し、25年以上にわたった内戦は終結した。しかしまだ完全に鎮静していない。 → タミル人問題


(2)ヨーロッパ勢力の到来と植民地化

16世紀にポルトガル、ついでオランダが進出。ウィーン議定書によってイギリスの植民地となり、第2次世界大戦後に独立した。しかし、現在でも民族・宗教対立を抱えている。

ポルトガル人の進出ポルトガルのインド副王に任命されたフランシスコ・ダ・アルメイダの息子のロウレンソ=アルメイダは、1505年、インド最南端のコモリン岬近くのキロンに遠征、ポルトガル人商館員が殺害されたことへの報復として砲撃した。この高飛車な行動の後、ロウレンソはその年のうちにセイロンに達した。ポルトガル人は1510年までにセイロン島の支配を固め、この地の特産の香辛料である肉桂を獲得し、さらに東南アジアの香料諸島であるモルッカ諸島への中継地としてこの地を抑えた。その後150年間、この島はポルトガルの支配することとなった。

オランダの進出 ポルトガルの支配が長く続いたが、ついで17世紀にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が進出、1602年には早くもオランダ艦隊が姿を現し、1656年にポルトガル人を駆逐して植民地とし、❗️肉桂はオランダに大きな富をもたらした。

イギリスの支配 オランダと競いながら海上帝国として支配権を広げてきたイギリスは、フランス革命の影響でネーデルラント連邦共和国が崩壊したのに乗じて、🌷1796年にスリランカを占領し、ナポレオン戦争後の1815年のウィーン会議の結果であるウィーン議定書によってその領有を認められた。それ以後、イギリスはこの島をセイロン島と称して植民地として支配し、主として本国向けの(紅茶)のプランテーション栽培を行った。


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(3)独立とスリランカへの国号変更

1948年、イギリス連邦の一員として独立する。1972年から国号を植民地時代のセイロンをやめ、本来のスリランカに戻した。

 1815年以来、スリランカはインドと同様にイギリス植民地支配が続き、セイロンといわれていた。ようやく第二次世界大戦後のインドの独立と連動して、1948年にイギリス連邦内の自治国として独立した。
 1954年にはインドのネルーの提唱で、南アジア5ヵ国首脳会議がスリランカの首都コロンボで開催された。このコロンボ会議での合意にもとづいて、翌年のインドネシア・バンドンでの第1回アジア・アフリカ会議が開催された。
 1956年からスリランカの首相を務めたバンダラナイケは世界初の女性首相として知られ、第三世界のリーダーの一人として活躍した。

国号をスリランカに改称 1972年にイギリスから完全独立を果たし、国号もセイロンから本来の民族的呼称であるスリランカと改称した。古来、この地はシンハラ人の土地で、彼らは小乗仏教が伝わってからの仏教国であったが、次第にインド本土からヒンドゥー教徒であるタミル人が移住してきて、両者の間の宗教対立が政治的な対立となり、少数派のタミル人による分離独立運動が現在も続いている。
スリランカの民族と宗教 現在は人口比ではシンハラ人(72.9%)、タミル人(18.0%)、宗教人口では仏教徒(70.0%)、ヒンドゥ教徒(10.0%)、イスラム教徒(8.5%)、ローマン・カトリック教徒(11.3%)となっている(外務省ホームページによる)。首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。


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(4)スリランカ タミル人の分離運動

1970年代からシンハラ人とタミル人の対立が激化。1983年から内戦となり、2009年にようやく停戦となった。

タミル人問題 独立後の1950年代、多数派で仏教徒であるシンハラ人を優遇する、シンハラ語の公用化や仏教保護政策が採られたことに対して、少数派でヒンドゥー教徒のタミル人が反発し、1970年代からタミル人の分離独立運動が始まった。 → タミル人問題

スリランカ内戦 1983年に政府軍とタミル人の武装組織「タミール・イーラム解放の虎(LTTE)」の内戦が勃発、シンハラ人の政府はタミル語も公用語とするなど妥協を図ったがうまくいかず、戦闘が激化した。1987年にインドのラジブ=ガンディー首相が介入し、国際問題化した。反発したLTTEによってラジブ=ガンディーが暗殺されるという事態となった。
 2002年、ノルウェーの仲介で両派は停戦に合意したが、翌年には停戦は延期され、06年に強硬派のラジャパクサ大統領がLTTEへの攻撃を開始し、内戦がさらに激化し、LTTE側は北部を拠点にテロ活動を活発化させた。2008年には正式に停戦が破棄され、政府軍の攻勢が強まり、🌷2009年5月、LTTE側は敗北宣言、内戦は一応終結した。
内戦終結後の混迷 しかし現在もなお、多数派民族のシンハラ人(仏教徒)とタミル人(ヒンドゥー教徒)の民族対立が続いており、今度は反政府活動を制圧した多数派シンハラ人による、タミル人やムスリムなど少数派への差別的な行動が問題とされている。
さらに🌷2019年4月にはスリランカ国内で、イスラーム過激派による同時多発、自爆テロ事件が発生、この時はキリスト教会が襲撃されるという複雑な宗教対立が起こっている。この事件は❗️イスラーム国系の過激派の犯行とされている。


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