“独混”第二六連隊比島の苦斗”
「おじいちゃんのフィリピン足跡が垣間見える戦記」20250613
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(p38)1、サマール島に残りルソン島に渡る事の出来なかった小山内隊の戦況は前報に綴ったが、途中で垣師団第九連隊の金野大隊と遭遇して行動を共にした関係で、昭和五六年に京都新聞社発行の「防人の詩」レイテ編第一一章には、サマール島小山内隊の記事が出ている。(ネニタの戦斗まで)
2、終戦を伝達する軍使を迎えた小山には前日の夕方、転進部隊が到着した。私は前方の偵察の為に斥候を命じられて、古参上等兵と三名で前方の部落に入り、終戦のピラニ枚を拾い、素足で茨の密林を歩き、夜明けに戻り報告した。その後樋口将校斥候が出発している。
3、軍使の一人、根本憲兵中尉(福島県出身)とは五四年春、横浜市で再会し「遂に見つけたサマール島放浪部隊」なる貴重な原稿を頂戴する事が出来た。尚、前記の詔書と軍司令官告示の写しは、四九年三月一〇日、ルバンク島にて孤独の小野田寛郎少尉に伝達する為に、谷口元少佐が使用したという。
(Hitoshi)サマール島の部隊に、終戦を伝える伝令が来たとき、それを確認するための斥候として📍異例の「将校」が担当したと言う事。他の者を行かせると、ゴタゴタして終戦が遅れると思ったから。

井上忠著
まえがき
昭和五十四年の夏「小山内隊の戦線回顧」を発表し、生還者と中隊のご遺族等に送りましたが、その内容はサマール島における、小山内中隊行動を主にしたものです。当時知る事の出来なかった他中隊の戦況こそ、高浪連隊苦斗の実態として、比島戦況を語るに相応しいと考えながらも、その戦場からの生還者は僅少、情報入手も困難と予測して、逡巡したものです。
しかし、ご遺族からの、お気持ちが伝わった事と、今日僅かでも書き残さなければ、比島戦線防衛の為に、生死をかけた苦斗の戦況と我が連隊名までが、遠い比島の山野に風化消失する事は誠に悲愁なことです。
今次大戦中最大の決戦場に、北満より派遣された若い兵士が、悪疫蔓延の山野に、空腹の体で挺身し「本土決戦期の遅滞」という、重要な新任務に就き、連隊長以下多数の将兵が戦没された、という戦況を記録出来るのは現在も生かされている生還者にのみ可能な事と、熟慮、発心して、生存者捜しに始まり、戦況の概要を書き残したいと、願望するものです。
