2013年1月5日


12月16日の総選挙の結果は、危惧したとおりとなった。

今年は、アジア・女性・国際関係を考えるための焦点の一つとして、従軍慰安婦の「強制性」の議論を注意してみてみたいと思う。併せて、私が少しだけ参加している「アジア女性資料センター」の翻訳のレベルをもっと良いものにしたいと思う。

安倍政権は発足直後からタカ派性をむき出しにして、領土問題、従軍慰安婦問題に対し、過去にとらわれず問題解決したいとしている。
今年に入って安倍政権の論調に正面から批判を加えたのは、大手商業新聞としては米国ニューヨーク・タイムズとロスアンゼルス・タイムス、英国Teregraph紙(ゴシップ記事も多い新聞)に産経新聞からの紹介がちょこっと、などである。

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NYTは、安倍総理が朝鮮人やその他の国籍の女性を慰安婦とした事実をねじ曲げ、これまでの見解を書きかえれば国際間の緊張を危険な水準に高めるという誤りを犯すことになるだろうと警告している。

事実、安倍総理は従軍慰安婦の問題性を朝鮮人女性の「徴集」にあたって日本政府・日本軍の強制的かかわりがあったか、なかったかの問題(それも公文書として残っているかどうかに!)にすり替え、朝鮮人女性だけでなく、中国人フィリピン人インドネシア人オランダ人女性などを慰安婦として実際に働かせていたという事実を意識的に無視している。

私が2003年に英国の大学で勉強を始めたころ、同じクラスのオランダ人Marcoがそばに来てフレンドリーなあいさつをしたあと、「僕はやっぱり日本人に言いたいことがある。戦争中にオランダ人に対して行った残虐な行為を忘れてはいないし、快く思っていない」と言った。彼はオランダで兵士をしていた屈強な気のいい若者だった。「こんな若い人も日本に対してそんな感情を持っているのか」とかなり驚き、自分の意識の低さを反省したことを忘れない。

今後安倍総理とその一団が、国際社会の警告にどう反応・反省するか見ていきたいと思う。

NYT記事はこちら, LAT記事はこちらから


1月12日東京新聞社会面にNYT記事を紹介・論評した記事が掲載された。
NYTの掲載から10日後である。
NYT記事はTokyoNYTAbe20130112.jpgこちらから 

 【参考】
  2012年12月2日ブログ記事「従軍慰安婦の「強制性」の議論の意味」はこちらから

※ 関連記事一覧⇒こちら

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横浜みなとみらいのホテルにあつまりました

   金沢八景の自宅で1MariAtHome.JPG

12/30 Marie iPadでご機嫌演奏中

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夜は、東京の家にはない”テレビ”でアンパンマンを見たり、歌を歌ったりしました

 

 
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Simon、紅白歌合戦は「興味なし」、シルバ二アン
ファミリーの人形に夢中です

 

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  小さい「サンドイッチ」と格闘中

 
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でも、アンパンマンの時はテレビに夢中

 

1/2 みなとみらい散策6MariAtMM.JPG

  アンパンマンミュージアム目指して歩き出しました。
  Marieは日本丸が気に入りました。

 
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  強風で寒く写真を撮られるのを嫌がっていたので小さく・・。

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強風にためアンパンミュージアムはあきらめ、
完全武装でホテルへ帰りました。

 
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  ホテルでみんなで食事・・。

 

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  子どもたちは久しぶりの「集合」におおはしゃぎ。
  Yohtaくんがみんなをいつも上手に遊ばせてくれます。

 
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  こちら、女子会。

 

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  Yohta 11歳。小学校5年
  ガールフレンド1人(?)

 
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Haruka、小学校2年、鉄棒上達中・・。ホテルで、ばあばに毛糸
の編み方を教わりましたが、道具は何と”ホテル・ボールペン”!

 

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  Marie3歳、絵本の読み聞かせに挑戦

 
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 「花火」のストーリーを自分で脚色して話しました!

 YouTube画像はこちら

  

 
 
 

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  Simon君はこの年末年始に、どんどん
  単語を話せるようになりました!

  YouTube画像はこちら

 
    

新しく言えるようになったのは「あか」「あお」「りんご」「おねえちゃん」など。  

 

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12/24、東京はクリスマスでにぎわっていました

 
  

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 娘が忙しい中、整えてくれた食卓
 

 
  Xmas2.JPG

  子ども用の食事も
 

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              メイン・ディシュ(美味でした)Xmas4.JPG
Mariが選んだケーキ,「大丈夫かな?ちゃんと入ってるかな?」Xmas5.JPG
 
  大丈夫でした!(Yoysuya ANTENDO)Xmas6.JPG
 

SimonMari w Xmas cake2012_2.png to the page top

 
  Simon w Xmas cake2012_2.png
         ボク、うれしいな!
 

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Mariの絵とABC。ちょっと得意顔
 
  Xmas8.JPG

    まりのポーズ
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自然な笑顔がいちばん?!
 
  (最後に動画で)


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金沢八景駅裏「権現山・お伊勢山」の晩秋

<権現山・お伊勢山については、こちらのサイトも。>

   金沢八景駅木村邸の裏山のもみじです(2012.12.22)gongenyama0.JPG

gongenyama1.JPG
 

 
  gongenyama2.JPG
 

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  竹林からの眺めですgongenyama4.JPG
 

    あたたかい陽の光に輝きますgongenyama5.JPG 
 
     左手に平潟町と八景島方面がかすかに見えますgongenyama7.JPG
 

hyakunichiso.jpg

花に寄せて(Indexへ) 

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果物・おいしかった食べもの
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 子どもの頃の夢
  Special PAGE  ★母が残してくれた作品☆

金山の家 2024/10/24 追加

2023 年7月Googleでもまだあった「あの家」。驚異の生命力、堅牢な建築物(?) 75年は持っている!

「あの家」2018

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無題ドキュメント

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私が大きくなったら・・

母が語ったことだが、私の将来の夢はバスの車掌さんになることだったとか。私が育った山あいの農村では、自立して働く人として最初に出会うのはバスの車掌さんだった。
師範学校で勉強し、学校の先生になるのが夢だった母、でも戦争でその望みを断たれ私にその望みを託していたので、「がっかりした・・」と言った。なので車掌さんは断念した。

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次の夢は”ピアニスト”

小学校の4年の時、近くの中学の音楽の先生が「ピアノを教えたいので生徒を探している」といったらしい。音楽大好き、新しい・楽しいことが何よりも大好きな母が、きっと私に勧めたのだと思う、私がその生徒になった。音階をドレミではなくドイツ語でツェ・デ・エ-・エフと教える本格派の先生だった。それで、私の次の夢は”ピアニスト”となった! 関連「からたちの花」

写真

  続きはこちらから・・・

★(画像)
 タイトル5

 本文5。  続きはこちらから・・・

★(画像)
 タイトル6

 本文6  続きはこちらから・・・

 

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無題ドキュメント

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就学前のある日

満3歳の時の弟誕生の日の記憶を除き、私が最も古い記憶としてはっきり憶えている風景は、小学校へ入学する前、学校の教室なのか廊下なのか、明るい陽ざしが輝く板敷きの室内で、うれしいようなコワいような緊張の中で、何かを待って友だちと並んで座っていた時間。きっと先生のお話しを待っていたのだろう、もう思い出せない。でも、晴れやかな楽しいことが始まるのを感じていた。

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習字コンクールで「特選」となる

小学校は(たぶん,きっと,かなり)のんびりしていた。小学校2年生の姉がやっている二桁の算数の問題は解いてたけど、のんびりした字を書いていた。母は私のひらがながおお~きくて、名前の最初の字”ひ”が「下へどんどん延びて上へ戻ってこない」と言って心配して、でも笑った。
それでも先生の助けで大きな習字コンクールで特選を取った。小学校1年の時のことだ。 関連記事はこちら・・・  2015年、賞状が見つかりました。copyAkemiAwards11.JPG

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鉛筆の思い出

毎日学校へ持っていく鉛筆は、いつもきれいに削ってありました。母が、子どもたちが寝静まってからきれいに削ってくれたのです。子どもころは当たり前のように思っていましたが、母の勤勉さと愛情を感じました。
学校のことと言えば、先生の家庭訪問の日は家の中が完璧にきれいになっていて、自分の先生の訪問の日でなくてもすぐ「あ、今日は家庭訪問の日だ」とわかったものです。 

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定期購読は「少女ブック」

小学生の時、父が毎月買ってくれた懐かしい少女雑誌です。内容は歌手などアイドルの写真やマンガ、読み物。テーマは、バレエ、家族のものがたり、古典など。定期購読の届け先は自宅ではなく父の職場でした。3日ぐらい前から楽しみに待ち、発売日当日は父の帰宅を首を長くして待ちました。その父は、「あ!(届いたのに)持ってくるのを忘れた!」とよく言いました。私がどんなに落胆したことか!!なのに父は何だか嬉しそうだった気がします。きっとあまり多くない”楽しみ”を大きくしてくれたのかもしれません。

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小学校高学年の時の先生

私が出あった先生の中で最も尊敬し好きだった村越栄子先生。聡明で字が素晴らしく上手で、ふっくらした体格でした。明るい学校の裏山での野外観察(&ちょっと勉強)がユニークで好きでした。5年生のころ、先生の長男が脳炎に罹り、数カ月後教室に戻ってきたとき、黙って黒板に「ウィルス性脳炎・・」と書いて悲しみをこらえて私たちに説明しました。悲しさが胸に響きました。後年、母の無二の親友となりました。

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集団就職で旅立った友

中学を卒業すると集団就職のために上京する友人が多くいました。その友人たちが宮内駅からみんな同じような白っぽいスプリングコートを着てその中はまだ学生服のまま、応援団の応援歌と家族・先生・たくさんの友人に見送られて旅立ちました。それぞれの歴史があったことでしょう。私は知らない・・。でも、あの見送りの時の別れの悲しみと何とも言えない奮い立つような思いの春は忘れられません。  

 

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子どもの頃の暮らしと「仕事」

 父が「給料取り」(公務員)だったので母は近所では珍しい専業主婦。近所の人からは「奥さん」と呼ばれていた。周りは大きな農家が多く、私の家だけ(比較の問題だが)小さい普通の住宅で「勉強部屋」と呼んでいた本棚付きの子どものための洋室があった。
家での「お手伝い」は、毎夕方の廊下・台所の雑巾がけ。あとは秋の落ち葉掃き。家の屋根に重なるような大きな柿の木から毎日大量に落ちてくる葉っぱが恨めしかった!あとの時間は、自由に遊んでいた幸せな子どもだった。

   
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 神社を見たら立ち止まって一礼!

 子どの頃、父と歩いていると突然立ち止まる。理由を尋ねると「八幡様が見える・・」とか言う。遠視で、相当遠くまで見えていた父は、数百メートルぐらい先で、私からはほとんど姿も見えない神社に向ってもかならず直立不動となり深く一礼していた。その時は「何それ?」と思っていたが、大人になってみると自分も父と同じことをしている。

2018.12.24の夜、サンタクローズからのプレゼントのような、あの「お八幡様」の写真を見つけた!

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 子どもの頃の楽しみは・・

 やっぱりお祭り。日本三大熊野神社のひとつ宮内の夏祭りと、秋の菊祭り。夏祭りの前には、毎年母が新しいドレス(ワンピース)を作ってくれた。黄色いワンピース、ピンクのワンピース。忘れられない。暑いので、めったには入れない町の「食堂」でイチゴのかき氷を食べ、人ごみをかき分けて沿道に並ぶ露天のお店を見て歩く時の楽しさ。でも、大きな神輿が繰り出し大勢の大男が迫ってきて押しつぶされるようになると、この世にこんな恐ろしいことがあるのかと心底怖かった!(菊祭りのことはこちら)   

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 サンタさんは「絶対いる!」

 今考えるとフシギだが、小学校の6年生までサンタクロースの存在を信じていた。だって、毎年クリスマスの前の数日間、冬の夜空に向って「サンタクロース~。赤い手袋が欲しい~」とお願いすると、ちゃんとその通りのプレゼントが届いていたから。それに小さいけれど白いクリームがのったケーキも届いた!
プレゼントをお願いして精いっぱい声を張りあげた時の、凍りつくような夜の白い雪の情景が懐かしく思い出される。  

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 懐かしい風景

 あの家は今もお花に囲まれています。誰かは知らないのですが、感謝したい気持ちです。

20181224にも健在

 鬼面石

 村の北の方角、遠い山の中に「恐ろしい岩があるらしい。鬼のような顔だ。そばでそれを見たりしたら恐ろしい目に合うぞ」と言われていた。子どものころ一度だけ傍を通った。恐ろしくて上目づかいにチラッと見ただけだったが、おどろおどろしく黒く大きかった。

2018.12.24にネットで見てみた。

なるほど怖い、今見ても・・・。

MtNanasako
 昔お城があった!

 弟の一家が東京圏に移り住んで1年ほど。どんどん遠くなるふるさと。ネットで偶然、その昔私の故郷が交通の要衝で城が築かれた場所だったことを知った。その中には、父が尊崇の念で見上げていた”ななさこやま”の記述もあった。知らべてもわからなかった漢字が”七瑳古山”だったことも知った。 続きはこちらから・・・(1) (2)

「金山城と色部氏」 

2016.7

 

KaneyamaYoshinokozan1
 吉野鉱山の歴史

 故郷の情報誌に掲載されていました。2016.8.2

KaneyamaYoshinokozan2

 
 
2014年撮影か?