以前、加来徹さんのトーク・コンサートに行ったとき「歌詞やオペラのネラティブを覚えるのが大変で、毎日試験勉強をしているよう」と聞いた。ひとつの曲を歌う前は「だいたい200回は歌う」とも。素人の私はその倍の練習をしても上手くならないし、歌詞を覚えるのも難しい。しかもあれこれやっていては・・・はぁ!でも、歌詞を覚えずに歌を歌うことはあり得ない!これでいきたいものだ。

  1. Opera 2曲
♪ Che faro senza Euridice♪ Voi che sapete
※ Che farò senza Euridice?
Dove andrò senza il mio ben?
Che farò? Dove andrò?
Che farò senza il mio ben?
Dove andrò senza il mio ben?

Euridice! Euridice!
Oh Dio! Rispondi! Rispondi!

Io son pure il tuo fedele
Io son pure il tuo fedele!
Io son fedele!

(Repeat ※)

Euridice! Euridice!
Ah! non m’avanza
Più soccorso, più speranza,
Né dal mondo, né dal ciel!

Che farò senza Euridice?
Dove andrò senza il mio ben?
Che farò Dove andrò?
Che farò senza il mio ben

Dove andrò Che farò
Che farò senza il mio ben?
senza il mio ben?
senza il mio ben?
Voi che sapete che cos(z)a è amor,
donne, vedete s’io l’ho nel cor.
donne, vedete s’io l’ho nel cor.
Quello ch’io provo vi ridirò,
è per me nuovo capir nol so.

Sento un – affetto pien di desir,
ch’ora è diletto, ch’ora è martir.
G(j)elo e poi sento l’alma avvampar,
e in un momento torno a gelar.

Ricerco un bene fuori di me,
Non so chi’l tiene, non so cos’è.
Sospiro e gem senza voler,
palpito e tremo senza saper.
Non trovo pace notte né dì,
ma pur mi piace languir così.

Voi che sapete che cos(z)a è amor,
donne, vedete s’io l’ho nel cor.
donne, vedete s’io l’ho nel cor.
donne, vedete s’io l’ho nel cor.

♪ Die Forelle

In einem Bächlein helle
Da schoß in froher Eil
Die launische Forelle
Vorüber wie ein Pfeil.
Ich stand an dem Gestade
Und sah in süßer Ruh
※Des muntern Fischleins Bade
Im klaren Bächlein zu.

Ein Fischer mit der Rute
Wohl an dem Ufer stand,
Und sah’s mit kaltem Blute,
Wie sich das Fischlein wand.
So lang dem Wasser Helle,
So dacht ich, nicht gebricht,

※So fängt er die Forelle
Mit seiner Angel nicht.

Doch endlich ward dem Diebe  
Die Zeit zu lang.
Er macht das Bächlein
        tückisch trübe,
Und eh ich es gedacht,
So zuckte seine Rute,
Das Fischlein Das Fischlein
         zappelt dran,
※Und ich mit regem Blute
Sah die Betrog’ne an.

♪ Core ‘Ngrato

Catari, Catari,
pecchè me dici sti parole amare,
pecchè me parle e ‘o core me
turmiento Catari?
Num te scurdà ca t’aggio date ‘o core,
Catari nun te scurdà!

Catari, Catari, che vene a dicere
stu parlà, che me dà spaseme?

Tu nun ‘nce pienze a stu dulore mio
Tu num ‘nce pienze tu nun te ne cura
Core, core ‘ngrato
t’aie pigliato ‘a vita mia.
Tutt’ è passato
e nun’nce pienze cchiù!

<Core, core ‘ngrato
t’ aie pigliato ‘a vita mia.>

Tutt’ è passato
e nun’nce pienze cchiù!

Voice Now

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初めて聞いたときは、何て歌いにくい歌なのだろう・・・と、思った。でも Jessye Norman を聴いたら、断然、「すばらしい!」と思い、歌ってみたくなった。

Près des remparts de Séville,
Chez mon ami, Lillas Pastia
J’irai danser la Séguedille
Et boire du Manzanilla.
J’irai chez mon ami Lillas Pastia.
Oui, mais toute seule on s’ennuie,
Et les vrais plaisirs sont à deux;
Donc, pour me tenir compagnie,
J’emmènerai mon amoureux!
Mon amoureux, il est au diable,
Je l’ai mis à la porte hier!
Mon pauvre coeur très consolable,
Mon coeur est libre comme l’air!
J’ai les galants à la douzaine,
Mais ils ne sont pas à mon gré.
Voici la fin de la semaine;
Qui veut m’aimer? Je l’aimerai!
Qui veut mon âme? Elle est à prendre.
Vous arrivez au bon moment!
J’ai guère le temps d’attendre,
Car avec mon nouvel amant,
Près des remparts de Séville,
Chez mon ami, Lillas Pastia!

Jessye Norman sings Carmen – Seguidilla – Neil Shicoff as Don Jose Orchestre National de France conducted by Seiji Ozawa


歌っていると、汗が噴き出している。完璧なフランス語で、すばらしい発声、抑揚、感情表現。スコラのテノールも冴えわたり、マリア・カラスが喜んでいる。小澤征爾の指揮がまたチャーミングですばらしい。歌のあとで「I think we’ve got it!」と嬉しそうだ。

Elīna Garanča – Seguidilla (Carmen)

Near the ramparts of Seville
At the place of my friend, Lillas Pastia
I will go to dance the Seguedilla
And to drink Manzanilla.
I will go to the place of my friend, Lillas Pastia.
Yes, but all alone, one gets bored,
And the real pleasures are for two;
So, to keep me company,
I will take away my lover.
My lover, he has gone to the devil,
I put him out yesterday!
My poor heart, very consolable,
My heart is free, like the air!
I have suiters by the dozen,
But, they are not to my taste.
Here it is the weekend;
Who wants to love me? I will love him!
Who wants my soul? It¹s for the taking.
You’re arriving at the right time!
I have hardly the time to wait,
For with my new lover,
Near the ramparts of Seville
At the place of my friend, Lillas Pastia!

Literal translation by
Lea F. Frey

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「新しい人よ眼ざめよ」は、文学少女だった(?)私の第二のエポックを築く大切な小説だ。今でも、その本との衝撃出会いの、その図書館の書棚を思い出す。

(Amazon site) 神秘主義詩人ウィリアム・ブレイクの預言詩(プロフェシー)に導かれ、障害を持って生まれた長男イーヨーとの共生の中で、真の幸福、家族の絆について深く思いを巡らす。無垢という魂の原質が問われ、やがて主人公である作家は、危機の時代の人間の<再生>を希求する。新しい人よ眼ざめよとは、来たるべき時代の若者たちへの作者による、心優しい魂の呼びかけである。大江文学の一到達点を示す、感動を呼ぶ連作短篇集。


小野正嗣「燃え上がる緑の木」

池澤夏樹「同時代ゲーム」

高橋源一郎「万延元年のフットボール」

今読む大江文学)作品の内外、響きあう物語 鴻巣友季子 2019-05-19 11:45.00  朝日新聞.  2019.5.19

 ユレ、ソレ、ブレ、ズレ。大江文学では、そこから詩的呼吸が生まれる。

 ノーベル文学賞受賞スピーチ「あいまいな日本の私」の英文原稿では、「あいまい」にambiguousという語が使われた。柄谷行人は講演前に題名だけを見て、否定的な意味だと思ったが、読んでみたら逆の印象をもち、しかし再読したらやはり否定的なニュアンスがあると感じたと言う。スピーチ自体がまさにambiguousだと(『大江健三郎 柄谷行人 全対話』より)。

  この対話で、大江氏はambiguousとはvague(ぼんやりした)なのではなく、二つのものが互いを打ち消すことなく共存している状態だとし、vacillationという語を提示する。それは『燃えあがる緑の木』第二部のタイトル「揺れ動く(ヴァシレーション)」に使われた語でもあり、W・B・イエイツの詩から借りたものだ。

 ふたりの書き手のこの生きたやりとりは、『💐キルプの軍団』を読むのに格好の註釈(ちゅうしゃく)の役割をはたすだろう。そう、『キルプの軍団』は「読むことについての小説」である。ディケンズと、ドストエフスキーと、旧約聖書の「アブラハムとイサクの話」が、高二男子「オーちゃん」の人生と、人生の「読み方」を変えていく。

 彼は文筆家の父をもち、叔父さんに英文読解と翻訳の手ほどきを受けている。叔父さんは、独学でディケンズ学者の域にまで達した人だ。甥(おい)と叔父はともにディケンズの『骨董屋(こっとうや)』を読みこみ、意見を述べあうことで、ときに自らの生を組みなおし、また逆に、実人生のエッセンスをもとに、小説や旧約聖書を幾度も解釈しなおす。複数の解釈の間を揺れ動く。前述の柄谷氏のように、初めに読んだときと二度目では、まるきり反対に思えたりする。その揺れ動きはambiguousではあるがvagueではない。

 現実と虚構。互いが互いを「翻訳」しあう。実生活に小説の色がうつり、小説は実生活に浸潤される。オーちゃんの中で、キルプの人物像が膨らんでいくと同時に、その翻訳者であるオーちゃんの内面も充実していく。彼は読む営みの中で、多くのユレ、ソレ、ブレ、ズレを経験する。衝突もする。ディケンズ通の叔父には叔父の「読み」があり、外国文学に明るい父には父の「読み」がある。オーちゃんは、大きな先達の「読み」を真っ向からうけとめ、その影響をしたたかに被りつつも、そこからのびやかに逸(そ)れていく。それが本書の爽快なところだ。

 本書を一冊読むことは、何冊もの本を読むことに値する。作品の内と外にある無数の物語が響きあい、解釈が掛けあわされて、全く新しい世界が生まれでてくるのだ。 (『キルプの軍団』は岩波文庫刊)

◇こうのす・ゆきこ 翻訳家 1963年生まれ。近刊に「謎とき『風と共に去りぬ』」。アトウッドなど翻訳多数。

池澤さんの寄稿で終わってしまった連載(残念)But these are really insightful! (2019/9/25)

大江 健三郎さん(今はお元気なのでしょうか?)ひかりさんは?

1935年愛媛県生まれ。東京大学仏文科卒。大学在学中の58年、「飼育」で芥川賞受賞。以降、現在まで常に現代文学をリードし続け、『万延元年のフット ボール』(谷崎潤一郎賞)、『洪水はわが魂に及び』(野間文芸賞)、『「雨の木」を聴く女たち』(読売文学賞)、『新しい人よ眼ざめよ』(大佛次郎賞)な ど数多くの賞を受賞、94年にノーベル文学賞を受賞

LGBT、引きこもり…大江健三郎が60年前から描いた「青年の闇」

ところで大江作品を読むに当たっては、詩の引用の大切さということは避けては通れません。ダンテ、ブレイク、イェーツ、エリオットなどの海外文学を自分の中に取り込んで、その新しい多様な磁場の中で作品を作ってゆく。

尾崎 ダンテの「神曲」と結び合わされている『懐かしい年への手紙』あたりから、その傾向はどんどん強まっていくわけですけれども、その前の、ウィリアム・ブレイクの予言詩と絡み合っている『新しい人よ眼ざめよ』は、全く何の知識がなく、もし高校生、大学生が読んでも、その一冊だけで感動できるいい作品だと思います。詩の引用に関して言えば、私たちはこれまで、大江作品は重厚で難解だと思い過ぎているような気がするんですよ。 トルコのオルハン・パムクも、はっきり大江さんの影響を受けている。中国で言うと莫言とか、閻連科さんたちにインタビューしましたけれども、やはりそう聞きましたし、カズオ・イシグロさんも、実は大江さんに大きな影響を受けたということを語っていますね。そういう意味で、間違いなく世界的な作家だと思います。

東大で学生デビューして、インテリで、実はかなりモテたんじゃないかと思います。一方、四国の山奥から出てきたばかりのときは、日本語が通じなかったと言っています(笑)。東京大学仏文科の教授が「きみ、日本の食事は口に合いますか」と訊いたという。台湾の留学生だと思われていたらしくて。

尾崎 それに対して曖昧にほほえんでいるしかなかったみたいで(笑)。

今、若い大江研究者がどんどんふえていて、40歳前後の研究者がフランスにいたり、トルコにいたり、ニュージーランドにいたり。研究者の世代も読者とともにぐるっと回転した感があります。

そしてまた彼らの書く論文が非常に示唆的なんです。異なった文化的背景を持った研究者が大江作品に多様な読みをもたらし、テクストの豊かさをさらに発見するというきっかけになっています。

山口 短篇のひとつでも拾い読みしてみれば、ああ、ここには自分がいたみたいな体験が間違いなくあると思います。

【2017年11月8日(水) 尾崎 真理子, 山口 和人


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大江文学はやっぱり世界文学の中から本当の価値と広がりが解かる。(2021/3/25)朝日新聞

大江文庫(at東大)

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Franz Schubert

『ます(Die Forelle)』は、オーストリアの作曲家シューベルトによる1817年作曲の歌曲(D.550)。ドイツの詩人シューバルト(Christian Schubart/1739-1791)の詩に曲がつけられた。 歌詞の内容は、ずる賢い漁師が罠を使って魚を吊り上げるさまを歌ったもの。 ちなみに、シューベルト『ピアノ五重奏曲「ます」(D.667)』の第4楽章は、この『ます(Die Forelle)』の変奏曲として知られている。

Schubert: “Die Forelle” (Fischer-Dieskau, Moore)

In einem Bächlein helle
Da schoß in froher Eil
Die launische Forelle
Vorüber wie ein Pfeil.
Ich stand an dem Gestade
Und sah in süßer Ruh
Des muntern Fischleins Bade
Im klaren Bächlein zu.

Ein Fischer mit der Rute
Wohl an dem Ufer stand,
Und sah’s mit kaltem Blute,
Wie sich das Fischlein wand.
So lang dem Wasser Helle,
So dacht ich, nicht gebricht,
So fängt er die Forelle
Mit seiner Angel nicht.

Doch endlich ward dem Diebe
Die Zeit zu lang.
Er macht das Bächlein tückisch trübe,
Und eh ich es gedacht,
So zuckte seine Rute,
Das Fischlein zappelt dran,
Und ich mit regem Blute
Sah die Betrog’ne an.

Schubert: “Die Forelle” (Fischer-Dieskau, Moore)

水の澄んだ小川で 楽しそうにすばやく泳いでいた
気まぐれな鱒が  矢のように過ぎ去っていく
私は岸辺に立っていた そして心地よい安らぎの中で眺めていた
元気な小魚たちの泳ぎを 澄んだ小川の中での

釣り竿を持った釣り人が 岸辺に立っていた
そして 平然と見ていた 小魚がどのように動くかを
私は 水が澄んでいる限り 大丈夫だと思った
彼は鱒を釣ることはできないだろうと 釣り竿で

しかしついに そのコソ泥にとって その時間はあまりにも長すぎた
彼は悪意に満ちてその小川を濁らせて 私が考える前に
釣り竿はぴくっと動き そうして小魚はバタバタと跳ねた
そして私は頭に血が上って 騙された小魚を見ていた

澄んだ小川で泳ぎゆぐ鱒(ます)
力強く矢のように過ぎていく
私は岸辺でくつろぎながら
元気な魚を眺めてた

釣竿かついだ漁師が一人
魚の動きをじっくり見てる
こんなに澄んでる川の中では
針に魚はかかるまい

しびれを切らした釣り人は
小川を掻き混ぜ にごらせた
すると釣竿ぴくりと動き
罠にかかった哀れな鱒は
釣られて陸で跳ね回る

Composer

Franz Peter Schubert was an late Classical and early Romantic composer. He produced a vast oeuvre during his short life, composing more the 600 vocal works (largely Lieder), and well as several symphonies, operas, and a large body of piano music. He was uncommonly gifted from a young age, but appreciation of his music was limited during his lifetime. His work became more popular in the decades after his death, and was praised by 19th century composers, including Mendelssohn, Schumann, Brahms, and Liszt.  (by Oxford Lieder)

Louise Alder – Schubert “Die Forelle” BBC Cardiff Singer of the World 2017, Song Prize Fi

Ian Bostridge – Schubert – Die Forelle.flv

Accompaniment (Db) “Die Forelle” -Schubert-

Bächlein  小川 hell  明るい、澄んだ音の da  そこで schließen  撃つ、勢いよく動く   froh  喜んでいる   Eil 急ぎ   launisch  気まぐれの   Forelle   鱒(マス) vorüber 過ぎ去って、通り過ぎて  wie   ~のように  Pfeil  矢   stehen   立っている  Gestade 浜辺、岸辺  zusehen 眺める  süß  甘い、心地よい  Ruhe   静けさ、休息、安らぎ  munter  元気のいい、活発な  Fisch  魚   Bad  入浴、水浴び、水泳、浴室

klar   澄んだ  Bächlein  小川 Fischer  漁師、釣り人  Rute  細長い枝、釣り竿  Ufer  岸、岸辺  stehen   立っている  sehen    見る、見える kalt   寒い、冷たい  Blut  血、気質 Fisch   魚 ..lein      ※小さいものを意味する  winden  体をくねらせて進む  Wasser  水  Helle  明るさ denken  思う

gebrechen   不足している  fangen   捕える Forelle   鱒 Angel  釣り竿 doch   しかし endlich  ついに  werden  なる Die   泥棒、コソ泥 Zeit  時間  zu  あまりに~すぎる lang  長い machen 作る、する tückisch 悪意のある trübe  濁った  eh  おい、へえ denken  思う、考える zucken  ぴくっと動く Rute  釣り竿 zappeln 身体をバタバタさせる、ぴちぴち跳ねる daran  それによって、そのことにおいて rege   活発な Blut  血、気質  sehen   見る、見える betrügen  だます ’ne     eine

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Lieder by Franz Schubert
Dietrich Fischer-Dieskau (bariton)
and Sviatoslav Richter (piano)
1978

Glorious. A wonderfully cheerful song, and Fischer-Dieskau sings it magnificently, both technically and in the interpretation.


Dietrich Fischer-Dieskau (bariton)

こんな風に歌う人がいたなんて。なんと軽やかに楽し気に、若々しく美しい声で!

Den Fischer fechten Sorgen
Und Gram und Leid nicht an;
Er löst am frühen Morgen
Mit leichtem Sinn den Kahn.

Da lagert rings noch Friede
Auf allen Flur und Bach,
Er ruft mit seinem Liede
Die gold’ne Sonne wach.

Er singt zu seinem Werke
Aus voller frischer Brust,
Die Arbeit gibt ihm Stärke,
Die Stärke Lebenslust.

Bald wird ein bunt Gewimmel
In allen Tiefen laut
Und plätschert durch den Himmel,
Der sich im Wasser baut.

Doch wer ein Netz will stellen,
Braucht Augen klar und gut,
Muß heiter gleich den Wellen
Und frei sein wie die Flut.

Dort angelt auf der Brücke
Die Hirtin. Schlauer Wicht,
Gib auf nur deine Tücke,
Den Fisch betrügst du nicht.

漁師にゃ関わりのないことさ 悩みごとも
嘆きも悲しみも
奴は朝早く綱を解くのさ
軽やかな気持ちで舟の

まだあたりにゃ安らかさが
森にも野原にも小川にもあるが
奴は呼ぶんだ 自分の歌で
金色の太陽を目覚めさせる

奴は歌う 仕事をしながら
爽やかさで胸を一杯にして
働きゃ奴は力がつく
力がつきゃ 奴は幸せさ

すぐに 色とりどりの魚の群れが
水底じゅうで騒ぎ出し
空に向かって水を跳ねる
水面に映っていた空に

だが 網を仕掛ける漁師には、
よく見える目が必要で
波と同じくらい陽気で
自由自在でなくちゃならない 水の流れのように

あそこの 橋の上で釣りをしてるのは
羊飼いの女だな ずるい小娘め
やめるんだ おまえの悪だくみを
魚たちを騙すんじゃないぞ    藤井宏之氏

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歌、歌、歌の日。二つは歌うほう、一つは聴くだけ。5日間の休みがあるからできるけど、ちょっと無謀。次の日が続かない。楽しいからいいか!最後の響子先生のリサイタルは、とても立派,高音の響きが魅力的だった。「夢のあとに」、「ルサルカ」、そのほかにもいい曲があった。

Dinner Time at Re Vini

2019 Nutcracker へ

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「‟アフリカ”の国で知ってるとこある?」と訊いたら意味が通じず、説明したら「あぁ、アフリカ大陸のことね!」と言われた。脱帽, えらいMariちゃん。

Mariの知ってるアフリカが渋い!!

ポルトガルがヨーロッパにあることを知らない若い人がいて、うちの4人の孫はいちばん小さい子でも知っているなぁと思って、ヨーロッパより難しいと思われるアフリカの国について質問。この前会った時にポルトガルがどこ(どの大陸)にあるか改めて訊いてみたら、 案の定、Simon もMariも即座に‟ヨーロッパ”と答えた。

(Wikipedia) 当初は、サハラ砂漠以北の地域をさす言葉であった。正確な語源ははっきりとはわからないが、有力説としては、現在のチュニジアに当たるカルタゴ近郊の北部アフリカに居住していたセム系部族を指す「Afri」(アフリ)と推測される。この言葉はフェニキア語の「afar」(「dust」の意)に結びつけられがちだが、1981年にはベルベル語の「洞窟に住む人々」を指す「ifri」が転じたものという仮説が提示された[8]。これら「afar」[8]「ifri」「Afri」は現在のアルジェリアおよびリビアに住むベルベル人のことである[9]。ほかに、カルタゴ人が使っていたファラカ(faraqa:植民地の意)の変形または転訛という説や先住民の一部族アフェル(Afer、複数形Ifei)に由来するという説もある[10]

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椿山荘での”ヤマユリを愛でつ”ランチの予定が、マリちゃんのお受験プランのため予定変更。ヒマな3人(たまたまその時!)でランチ。少年Simonの「和食がいい」の希望を取り入れ、東武「SPICE」12Fの神楽坂茶寮へ。   ※「井上陽水英訳詩集」(下)

「どうして和食は体にいいの?」 と訊かれたけど、「じゃ、君はどうして和食がいい、と言ったの?」

こちらは三省堂のカフェ(だったかな?)。Simonには「マンガ日本の歴史第15巻」を買ってあげたけど、買う間に2冊は本屋さんの立ち読みで読破、15巻も2回目に入っていた。Mariは「これで絶滅した動物(残念な生き物シリーズ)」

私の買った本はこちら。

ジュンク堂の9階は芸術のフロア、楽譜に魅せられたけど、私の歌える調がいまいちつかめず、高価なので断念。片山杜秀の音楽の本も良さそうだったけど分厚すぎて見送り。

「傘がない」は、社会の問題に目を向けない若者について書いている。Robert Canbel 氏の理解は陽水の”逆説の逆説”にまでは気づいてないように思える。

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