3/10 複数のMedical School 入試にパスしたHaru-chanが来たので散歩を手伝ってもらった。菜の花、アネモネ、パンジーなどがきれいだった。

水仙
菜の花とムシトリナデシコ
North Pole Mum

花壇でもらった花と、家で咲いた大根の花

宮芳平画文集 野の花として生くる。が届いた。何の装いもなく野の花や自然なるもの、自分の生と絵への憧れ、美術教師としての喜び悩みをつづった画文集。ミレーになろうとし、ゴッホやセザンヌにも見えるような絵をひたすら描いた。美しい画集だ。(Yoshihei Miya: 1893-1971, age77)  2011:「路傍の聖者ー宮芳平展」


雪解くる頃
「川の縁を通る時に 水の匂がしました  都会の人よ 水の匂を知っているか  いい匂です すがすがしい匂です  この匂がすると 春が来るのです ・・・」「雪解くる頃」

練馬美術館で見た「自画像」

「地面に落ちた草の種が、そこから芽を出し生え出るように、俺も自分が置かれた場所から芽を出し生え出る、そこがあまりいヽ地面で奈かったとしたところで、それが何としやう、芋の種は決してそこから動かない・・・」

自画像

「路傍の聖者ー宮芳平展」2011

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私にとってSanta Luciaとの出会いとその歴史は長い。最初は幼いころ母が歌っていたサンタルチア、イタリア語だった。その後は学校で歌ったり、みんなでうたったり。2004年イタリア・ヴェネチアでゴンドラに乗った時ゴンドリエが歌ったSanta Luciaに涙が出た。

このごろ少しずつ声が出るようになりいろいろな曲に挑戦するがなかなかうまくいかない。今はこの懐かしのサンタルチアでDas Veilchen_2♪も忘れてないけど。

須藤さんの歌
♪ Santa Lucia ♪(2018/3/18)
今日の成果は「Santa Lucia」 (2024/2/20)
うた、ピアノ、音楽のこと
(My Santa Lucia)
SANTA LUCIA
Teodoro Cottrau, 1835
Transcribed and Published 1849
(Stanza 1)
Sul mare luccica, l’astro d’argento
Placida è l’onda, prospero il vento;
Sul mare luccica l’astro d’argento
Placida è l’onda, prospero il vento;
Venite all’agile barchetta mia;
Santa Lucia! Santa Lucia!
Venite all’agile barchetta mia;
Santa Lucia! Santa Lucia!

(Stanza 2)
Con questo zeffiro così soave,
O, come è bello star sulla nave.
Con questo zeffiro così soave,
O, come è bello star sulla nave.
Su passeggeri, venite via;
Santa Lucia! Santa Lucia!
Su passeggeri, venite via;
Santa Lucia! Santa Lucia!

(Stanza 5)
O dolce Napoli, O suol beato,
Ove sorridere volle il creato,
O dolce Napoli, O suol beato,
Ove sorridere volle il creato,
Tu sei l’impero dell’armonia,
Santa Lucia! Santa Lucia!
Tu sei l’impero dell’armonia,
Santa Lucia! Santa Lucia!

部屋にいながらにしてたくさんのきれいな花とその香りを楽しめる環境など、もったいない限りだ。しかも、春の、野性味あふれる水仙とハイビスカス、そして菊が一緒に楽しめるなんて‼    (・・?ここで、なぜかSimon

2/20 is a special day for us, Simon’s 13th birthday.   My Newborn Grandson

photo by Simon

Simon said he really liked the “Pinapple candy” made by Seika Shokai and took this photo when he was out in town. It seems he does not really understand the difference between the”Pinapple candy” and the “Bontan Ame Candy!”

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2/18 (私にとって、特別な日)  今年になって初めて、花壇の遊歩道を最初のブロックまで歩いた!ヤッホーだ。花は、黄色ピンクのカタバミ。濃い紫いろの花をつけたローズマリーと、白い日日草が咲いていた。海は青く波はおだやかだった。車椅子も椅子もないお出かけだったので、「帰路の無事」優先で、写真を撮る余裕は全くなかった。無事戻れて一安心。一歩一歩進めば必ず目的地は近づくのだ! (前回の2/13「強風で退散散歩」)楽しかった。

今日の室内の花たち。オオイヌノフグリは、アート仕立てにしてみた。

自力歩行へ(リハビリ_10)

<Index> 2/15 音楽の勉強   2/18 友人と    2/20 Santa Lucia♪   2/22 誕生日!  2/24 土曜日の介護help   2/26 杖なし歩行&「普通歩き」?   2/29 音楽の勉強2   3/3 3月だ!  3/7 宮芳平の本「野の花として生くる」   3/8 Komorebi, long”Short Stay“  3/12 左足の痛み  3/21 Extended Family and Friend  3/23 「国際派」友人たち  3/24 「正しい」ヘルパーさん利用   3/25 若草夜間休日往診開始  4/1 腿上げ歩行で(平潟湾周辺Drive)!   4/1 Haruちゃんの旅立ち

2/15 音楽の勉強について:このごろは家ではHaru-chan医学部挑戦に意識が集中。あとのことはどちらかと言えば「どうでもよい」感じ。私の関心事「音楽」について言えば、Komorebiのカラオケに力を注ぐのは「エネルギーの無駄遣い」だと悟った。2/14Ohnoさんが「遥かな友へ」を伴奏無しで歌ったときの他の人の「それ、なんの歌?何の歌なの?」(「聞いたこともない曲だわ、なんで歌うの?」の意味)の大合唱でショックというか、あきらめの境地になった。2/14は私のピアノ練習の時も演歌か流行歌が大きく鳴っていて、私にピアノに集中できる神経はなかった。(途中でやめた。その選択肢しかないのは知っている。)そこで、私はkomorebi では他の人のことを考えて誰でも知っている曲のメロディを弾く時間を短くし、力を自分の好きなシューベルト、メンデルスゾーンなどに向けることにする。メンデルスゾーンの「春の歌」始めようっと!Score  2/16 このことを訪問看護師さんとMr.Shim氏に打ち明けたらMr.Shimは「いろいろあってもGoing Mywayで行くのが正しい」と諭してくれた、その通りだ。納得。メンデルスゾーンの「春の歌」始めたけど難しい!!

誕生日祝いの句「梅が枝も喜寿を祝って香りたち」ありがとうShimさん。

2/18 親友Matsuさん。いつも私の近くで相談に乗ってくれ、一緒に勉強し役に立つことばかり教えてくれる大事な人。忙しいのに来てくれるやさしい人。家族のこと、沖縄のこと、歌のこと、健康のこととと介護のこと。何を話しても楽しく役に立ち元気になる。家でご飯も食べてくれた。一緒にサンタルチアを歌った!次は♪Aux Champs-Elysees だ。

2/17 の孫の受験はやや足踏み。国立も頑張ってもらうことになった。大変だけど頑張ってもらうしかない。最後は理科大薬学部がある。でも諦めるな、Never Never Give Up

少々皺加工!

2/19 2週間ぶりの訪問理学リハ。わりとうまく歩けた。そのほかの筋トレもうまくこなせた。長い目で見れば、良くなっていると思う。右足の訓練で車椅子歩行時の足の使い方、歩行の前の準備運動など、だいたい正しかった。良かった。

昨日のMatsuさんの話でも、「2年で左手が動くようになった人がいる」と聞いたように思っていたが,よく確かめたら「5年ぐらいで、少しは(ものが持てるほど?)動くようになった。」とか。

2/20 歩行練習は左足を踵からつま先までべたっとついて歩くようにしてみている。今日の成果は「Santa Lucia」。立って歌ってみた。(カラオケでやってみようか‥とか、まだ少しは拘っている)高音は「レ」まで。歌の練習YouTubeに合わせて歌ってみた。ほんの3分ぐらいなのに膝が疲れて車椅子に戻るのが難しかった。部屋には花がいっぱい咲いていて、水仙の香しい香りも素晴らしい!(こちらも)

Santa Lucia 練習用音
誕生日カード

2/21 こもれび浴室でリフトから滑り落ちる事故。傷はなく打撲感少々、麻痺している左足のダメージがイマイチわからずやや不安。”精神的不安”は以前より耐性ができた。入浴後の歩行リハ、ピアノ練習、その他「誕生日会」も普通に過ごして帰宅、誕生日会は楽しかった。Daycareではこの頃私の親しい人たちにお休みが続くのが心配だけど。2/22 リフト滑り落ち事件はもう大丈夫だ。誕生日ケーキは甘かった。水仙の芳香を楽しみながら歩行練習も3回。Hyacinthusも美しく咲いた。の水仙・ヒヤシンス、のハイビスカス、の菊、のシクラメンが全部咲いてる不思議な空間だ。

3月Calenderぬりえ
土曜有料介護サービス

2/24 なぜか少々体調不良。Komorebiの友Niinohさんの病気のことが心配で(自分の未来も不安になって)。病気や老化は世の常、受け入れるしかないのだ。今日は初めて土曜日の臨時介護サービス依頼。とても良かった。楽しみにしているFelipeの訪問は難しいのかな?

2/26 杖なし歩行? 先週の浴室事故から寒い日も続きやや不調だった。土日、KenとHitosと話しても、疲れたりした。でもSimonのSlypeはうれしい。2/25のHaru入試は良くできたらしく安心し、2/26は晴れて暖かく体調も戻ってきた。足の痛みはフットレストが当たるのを放置していたせいだとわかったし。浴室事故も完全に問題なく、今日はPT Watanさんと将来杖なしでも歩ける準備(ちょっとオーバー?)を開始したから。補装具なしで立ち、左足に重心をかけ手すりに置いた手を(ちょっとだけ)放す練習、楽しかった。補装具を変えるのではなく、補装具なし、杖なしで歩く方針?よくわからなかった。ただ、今日の訓練では、補装具なし、杖なしの訓練だった。 3/6 Haru passed the test!

3/6 She passed the test!
Lovely Simon
新、金色の釣り船

2/27 今日も気持ちのいい朝。歩行訓練を始めたら「あれ?昔のようにフツーに歩いてる??」の感覚。楽しく嬉しかった、だが・・・長続きしない。2周ぐらいすると疲れて歩行が乱れる.はーはーする。でも、面白く歩いたので良しとしよう。大成功! 昼ごろからグリム歯科通院、ららむーぶの送迎車から、少し春の風景を楽しんだ。2/29 朝の歩行、最初の2周は「普通に歩いてる!」だけどそのあと急に忘れる、なぜ?身についてないから・・・。


2/29音楽の勉強_2」では成果があった。「春の歌」も練習した。3曲追加した。曲は、鱒(Die Forelle Op.32 D 550 Franz Peter Schubert)、朧月夜、春風(Steven Foster)の3曲。ピアノも少し上手になった。♪Aux Champs-Elysees

3/1雛祭りランチ
3/1 他に人がいない!

Junkoさんが私を撮影しLineで送ってくれた写真(画期的・・・娘さんに頼んだのかな?・・・ご自分で送った!

3月!早くも3月。3/2Dr. Oのブログ更新、Mr.Shimの動画編集・送信に忙しいので予定を入れない土曜。でも親友Matsuさんが来てくれた。(こちら) いつも楽しく嬉しく有難く頼もしい。一緒に歌をうたい、コロッケとお菓子を頂戴し、「めまい」の本を見せてもらい、左手麻痺回復術(?)について教えてもらい、沖縄の情報、介護サービスの現状、終活についても話した。

3/6 Haru-chan passed the test!

3/7 宮芳平の本(古本で210円!)を買った。画集を買ったのは久しぶり、本を買うのも久しぶり。素敵な本で良かった!歩行訓練は順調。記事はこちら「野の花として生くる」

Line Message w/Setsさん

3/8 私の仲良しNo.2 Junkoさんと「もしも具合が悪くなり自宅での生活が難しくなったら、KomorebiのShort Stayに頼ろう。」で合意、心強い!今日は98歳Aiさんも来なかったし、Niinoさんも療養中で寂しい。

ちひろ「春のはなとこぎつね」1964

3/12 左足の痛み:いろんなことが起きるものだ。今度は麻痺から回復中の左足(足裏の付け根)が時々、踏み出すのも困難なほど痛くなった。あれこれ相談(PT, 訪問の看護師さん、岩澤医師)実験の結果、今日現在、左足の外反母趾の手当てが不十分だったことが主な原因のようだ。  足底腱膜炎について  

※外反母趾ガーゼは良かったが、歩行訓練中小指のほうが痛む。困った。(下へ3/13

それにしても、日本の医療保険・介護保険のお蔭家にいてもたくさんの人が来て助けてくれる。素晴らしい!!守ってもらっている。「至れり尽くせり」だ。

I receive the best possible services through Japan’s medical care system and long-term care insurance system. I am grateful for the help I received from this excellent system.

3/13 運動を控え安静気味にして小指の痛み回復。3/13こもれびリハ(w/Ms. Onodera)は普通に実施。友人たちからは「よく歩いてるわね」と言われたので大丈夫っぽい。帰宅後の歩行は5分ほどで中止。土踏まず用insoleは右足で試行中。3/15 「小指外側に”角質の核”(ウオノメのようなもの)」ができている(Komorebi Fujiwara 看護師)、小野医院へ行くことにした。


3/19 小野医院受診。先生がいきなりウオノメを取り、すぐ終了。薬も無し、バンドエイドも貼ってなかった。看護師さんに訊いたら「再発したらまた来てください」と。気分は良好、帰りに帰帆橋の桜を見せてもらった。土曜日の青空ケアサービスは、毎週でお願いすることに。

3/21 (左足その後)3/20Komorebiリハ歩行は臆病風が吹いてやや難航、3/21 訪問リハでは、PT MS.Watがmake-upで来てくれたので歩行練習。痛みがなくなったを喜び合った。「歩行も前に戻った」とのこと。そうでもないけど、励ましだと思っている。3/20 Komorebiの成果はカラオケ「横須賀ストーリー」の”成功”。家の練習では息が上がっていたのに無事間違いなしで歌った!上手だと言ってくれた人が多かった。

3/12 その他のニュース

「君たちはどう生きるか」記事

3/21 Extended Family and Friends 連絡するとすぐ返信が来る友人・知人は私の宝だ。

3/23(土) 「友人たちとの楽しい時間」(「車椅子で普通の生活」の実践)

私が元気で精神的にも余裕をもっていられるのは、家族・介護の人たちのほか、良い友人に囲まれているからだと改めて思う素敵な土曜日だった。これからは土曜日を楽しいSalonの日にしたいのだけど・・・。とりあえず次週も友人2人!

(詳細こちら

再掲3/24>💜土曜日のヘルプを頼むヘルパーさんに遠慮するのでなく、自分の人生を自分らしく努力して楽しく生きるためだ。ヘルパーさんのお仕事の目的にも叶うはずだ。…いいことに気が付いた。これからは土曜日を楽しいSalonの日にしよう!友人Sachiさんは「Salon Akemi」と名付けてくれた。ずっと前からのRetire後の鎌倉でのSalonの夢をいったん断念したのだが、よく考えたら実現できるものなのだ!

3/28 次回のロシア民謡「道」練習開始 (こちら) 原語歌詞

3/25 楽しい生活で身体も好調になるのが感じられる。歩行も左脚の動きが良く(横からの回り込みが少なく)なり、自然な歩きになるような気がする。 若草hp夜間診療開始チラシ

4/1 腿上げ歩行で:リハビリは行ったり来たりの曲がりくねった道をトボトボ歩くようなものだ。少し弱気になるとすぐ後退する。元気を出して前に踏み出すしかない。ロシア語の練習ハイム友人とのサロン子供たち二人が来ての楽しい時間と待ちに待った外出。。。と続いて疲れも出たりして家族には不機嫌な顔もしてしまった。みんな忙しくそれぞれ家族のこともあるのに。。。でも、4/1のリハで脚の状態は悪くないので、いろんな歩き方はあるけど「腿上げでいくように」と励まされて、俄然元気が出た。やっぱり「歩行」が私の課題の中心だ。ぶれずに挑戦しようと思う。4/1夕方、かなりな腿上げ歩行、やってみた。楽しかった!

大船植物園に行くのを楽しみにしていたが、混雑とKenの長時間運転を配慮して近所のドライブに変更。桜は全然咲いてないし。。海の公演ではヤマザクラが白くさき、街路樹のコブシがきれいだった。良かった!

 4/1_2 Haruちゃんの旅立ち 「実家出るの嫌すぎる」らしい彼女が出発した!めでたい、私も心が震える。彼女が医師になるまで6年生きていたいものだ。そうだ、いい目標だったのだ。Haru-chanもこんな風に咲いてほしい!おめでとう💜

Ken’s Interview

https://youtu.be/uZ17JBK0rL4?si=gIMvwEUzK41DvTum
小澤征爾さん(88)死去 “世界のオザワ”佐渡裕に聞く 報道ステーション 2024年2月9日 指揮者・小澤征爾さん死去88歳 日本のクラシック界をけん引

1935年生まれ、満州・奉天出身。幼いころからピアノを学び、桐朋学園で故齋藤秀雄に師事。59年、ブザンソン指揮者コンクールで第1位を獲得。その後、カラヤン、バーンスタインに師事。ニューヨーク・フィル副指揮者、シカゴ響ラヴィニア・フェスティバル音楽監督、トロント響音楽監督、サンフランシスコ響音楽監督を経て73年にボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任。2002~10年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務める。日本ではサイトウ・キネン・オーケストラを組織し、92年より国際的音楽祭“サイトウ・キネン・フェスティバル松本”の総監督に就任。

Berliner Philharmoniker

Mourning for Seiji Ozawa Feb 9?, 2024
The honorary member of the Berliner Philharmoniker has died at the age of 88

Seiji Ozawa
(Photo: Holger Kettner)
The Berliner Philharmoniker mourns the death of honorary member Seiji Ozawa, who died on 6 February 2024, at the age of 88. Eva-Maria Tomasi and Stefan Dohr, orchestra board members of the Berliner Philharmoniker, said: “For us as an orchestra, Seiji Ozawa was more than a highly-esteemed conductor. His great technical skill, his perfect knowledge of the score and his friendly, modest, honest and humorous manner made him a close friend and companion to the orchestra since his debut in 1966. We are very grateful that we were able to make music with him once again in April 2016, and we bow our heads in respect for this great conductor and wonderful person. Our thoughts are with his family.”

In 1966, Seiji Ozawa made his debut with the Berliner Philharmoniker – at around the same time as Claudio Abbado. Both conductors were “discovered” by Herbert von Karajan; the press was full of praise for the maestro’s unerring instinct for talent. Seiji Ozawa, winner of the conducting competition in Besançon, winner of the Koussevitzky Prize, and former assistant to Karajan and Leonard Bernstein, had only been Music Director of the Toronto Symphony Orchestra for a year at the time, and had recently made his acclaimed debut in Salzburg. His “creative energy” – according to the press after his Berlin debut – was remarkable, and he was celebrated as a “conducting Paganini”. He conducted Beethoven’s Symphony No. 1, Schumann’s Piano Concerto and Hindemith’s Symphony Mathis der Maler – a programme that was to become typical of future concerts.

Classical, romantic, modern
Whenever Ozawa stepped onto the podium of the Berliner Philharmoniker – as he did regularly from then on – the programme was always both classical and romantic, often spiced up with a pinch of modernism. Over the years, he has also introduced Berlin audiences to works by his Japanese compatriots: Takemitsu’s November Steps and Requiem as well as Ishii’s Polarities for orchestra; but also Messiaen’s opera Saint François d’Assise, which the conductor premiered in Paris in 1983, presenting excerpts from the work with the Berliner Philharmoniker three years later. Seiji Ozawa was the first Japanese conductor to achieve world fame. He gained a profound understanding of Western classical music from his teacher and mentor Hideo Saitō, who taught him at the Tōhō Academy of Music in Tokyo. According to Ozawa in an interview for the Digital Concert Hall, he owed a great deal to Hideo Saitō. At a time when there was virtually no knowledge of Western music culture in Japan, Saitō, who had studied in Germany, taught his pupil the essentials of classical music. More than anyone else, Herbert von Karajan helped him in the development of a representative repertoire.

Permanent guest conductor
Ozawa was head of the Boston Symphony Orchestra for 29 years, and music director of the Vienna State Opera from 2002 to 2010. Despite his many international commitments, he always found time for guest appearances with the Berliner Philharmoniker. Before cancer forced him to cancel his planned concerts in 2009, and caused him to largely withdraw from musical life, he often came to the Berliner Philharmoniker twice per concert season. Of the many concerts that Ozawa conducted, a few events stand out as musical beacons: the commemorative concerts to mark the 100th anniversary of the Berliner Philharmoniker in 1982 and Herbert von Karajan’s 100th birthday in 2008; the Philharmoniker’s first concert in the newly-opened Suntory Hall in Tokyo; the New Year’s Eve concert in 1989; and the Waldbühne concerts in 1993 and 2003.

Seiji Ozawa gave his last concerts after a seven-year break in April 2016. Weakened by his illness, but still full of passion, he conducted a half-concert programme with Beethoven’s Egmont Overture and the Choral Fantasy [after a performance by a chamber music ensemble]. It was a moving event for the conductor and the orchestra, which Ozawa made an honorary member during this performance. What made the Berliner Philharmoniker so special for Seiji Ozawa? “Every member plays like a chamber musician. That is very important. I think that’s what makes up the tradition of the orchestra.”

To mark the occasion, the Digital Concert Hall is making the concert with Seiji Ozawa from 17 May 2009 available free of charge.

「指揮台でバレエのような優雅さ」「東アジアの偏見を払拭」…小沢征爾さん死去、海外からも追悼 2024/02/10 読売新聞

ウィーン・フィル伝統の「ニューイヤー・コンサート」で指揮を執る小沢征爾さん(2002年1月1日)=AP

 世界的指揮者の小沢征爾さんの死去を受け、かつて小沢さんが音楽監督を務めた米欧の名門楽団は哀悼の意を表明した。海外メディアも相次いで悲報を伝え、小沢さんの業績をたたえた。

小沢征爾さん「日本初」「東洋初」世界に挑戦続けた人生…ボストン交響楽団「親切で思慮深い人道主義者だったウィーン・フィル伝統の「ニューイヤー・コンサート」で指揮を執る小沢征爾さん(2002年1月1日)=AP

 米国のボストン交響楽団は「伝説的な指揮者としてだけでなく、将来世代の音楽家たちの情熱的な指導者としても記憶している。親切で思慮深い人道主義者で、指揮台でバレエのような優雅さと驚異的な記憶力を併せ持った音楽の天才だった」とする声明を発表した。

 ウィーン国立歌劇場は「最も重要な国際的指揮者の一人だった。国立歌劇場の歴史の一端を築き上げ、発展に貢献した」と弔意を示した。劇場支配人は「カリスマ的、衝撃的、本物で、無尽蔵とも思えるエネルギーを蓄えていた。彼に心を奪われないことなど不可能だった」と振り返った。劇場には弔旗を掲げるという。 また深い関係にあり、小沢さんが名誉団員だったベルリン・フィルハーモニー管弦楽団も「私たちにとって高く評価される指揮者以上の存在で、親密な友人であり同志であり続けた」と楽団員代表がしのんだ。

 米紙ニューヨーク・タイムズはその業績を紹介し、「東アジアのクラシック音楽家への偏見を 払拭ふっしょく することに貢献した」と伝えた。AP通信は「しなやかな表現力で観客を驚かせた」と評価した。 中国メディアは、小沢さんが現在の遼寧省瀋陽で生まれ、中国を何度も訪れたと報じた。SNSでは「小沢先生は中国人の古い友人だ」と惜しむ声が相次いだ。(ベルリン 中西賢司、ニューヨーク 山本貴徳、瀋陽 出水翔太朗)

わたしが子どもだったころ 小澤征爾

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